本書の「あとがき」を読んでいたらまさに「我が意得たり」ということが書いてあった。

 

 数式やグラフが並び、綿密な論理によって組み立てられたエコノミストたちの議論を読めば、ここには客観的な真理を追及する「科学」があると思うかも知れない。しかし、お互いを激しく罵り合う論争や、自説についての傲慢なまでの確信を目の当たりにすると、むしろ、それは「宗教」に近いのではないかとすら感じることもあった。

 

 英語の「Boss」はかつて日本を訪れた宣教師が将軍より偉そうにしている僧侶=坊主(ボーズ)こそが真の日本の支配者(ボス)なのだと思い込んだことからきているという俗説がある。いまは竹中平蔵こそが”自分の営利のために日本を貧しい国にした闇の支配者”であるように表象している人は多いだろう。

 

 

この映画に出てくる伊武雅刀みたいな

 

 総理にまで上り詰めた石橋湛山や経済企画庁長官となった堺屋太一など、過去にエコノミストから政治家に転身した例はあるが、それはいわば公然としていた。しかし今「内閣参与」などになる経済学者が隠然と最高権力者に入れ知恵するのを宇宙人が見たら、怪しげな教義によって権力者を操る闇の支配者は彼らであると思ってしまうだろう。一般人は経済ニュースで「サプライサイド」や「量的緩和」「インフレ目標」などと言われても「ラマダン」とか「三位一体」とか「只管打坐」みたいな宗教用語みたいに聞こえる。ただひたすら座禅にうちこめば悟りは開けるという教義はただひたすらインフレ率2%をめざして金融緩和すれば経済は好転するという教義と相似形だ。

 

 そして経済学の派閥によって互いに相容れない教義が混在している。緊縮派vs.財政出動派などはキリスト教とゾロアスター教のように全く別の宗教のようである。それにつきあわされる子羊(経済主体)は最低でも数年、日本の場合は三〇年もさまざまな経済対策につきあわされ、どれも失敗してきた。しかし経済学者はそれを自身の理論の欠陥ではなく「規制緩和が足りなかった」「財務省が妨害した」「やめろというのに増税しやがった」と政治家の無理解や政策の中途半端さに帰するのが常だ。


 平安の昔、宮中には陰陽師なる呪術使いが正式な官職として公務を行っていたというが、千年の後、エコノミストという幻術(数学)使いが政権中枢にいて陰に陽に権力者を操っていたと歴史に記されるかも知れない。

 

 また、同筆者による『エコノミストは信用できるか』の終章もある疑問に対するヒントを教えてくれた。

 

 疑問とは、なぜ経済学者という人種はあんなに性格が悪くて傲慢なのかということだ。SNS上の経済議論を見ても、なんだか経済学とは人をバカにするためのツールになっているのではないかという印象を受ける。

 

 

 筆者は九〇年代前半までは経済学者が名指しで他の学者を批判することなど珍しかったと述べる。

 

 ところが、九八年の野口旭による『経済対立は誰が起こすのか』(ちくま新書)あたりから、名指しどころか相手の著作を「トンデモ本」と決めつけるような、激しい論争のスタイルが珍しくなくなってきた。野口氏は二○○二年刊の『経済学を知らないエコノミストたち』(日本評論社)でも、「教科書的」な観点から論敵を一方的に切りまくるスタイルで論じ続けた。

 

 「トンデモ本」という言葉はそろそろ広辞苑に載るんじゃないかというくらい定着した観があるが、「と学会」の『トンデモ本の世界』が出版されたのは九七年で一〇万部をこえるベストセラーになって一般化した。

 

 そして九〇年代といえば日本版歴史修正主義が勃興していた頃だ。彼等は学校の歴史教育は「自虐史観」であると罵り、あるいは「GHQに洗脳されている」と一方的な診断を下し、朝日・岩波などを手を変え品を変え批判した。本のタイトルに「バカ」とつくものが増えた頃でもある。それが経済論争に飛び火したのだろう。

 

 複数の源流が流れ込んだ先が野口旭も参加した『エコノミストミシュラン』(二○○三年)だった。『エコノミストミシュラン』を読んだ当時はしかし、この本を「痛快だ」と思っていた。それは当時ほぼ原理主義と化していた小泉構造改革路線の「痛み」にウンザリしていたときに、ノーベル賞を取った経済学者の威光を武器に公然と異を唱えるレジスタンスが出てきたと思えたからだ。しかし今はこの本に参加していたリフレ派(当時はインフレターゲットといっていた)経済学者の面々が今も同じスタイルでツイッターで発言しているのを見るとウンザリしている。

 

 もう一つ、『エコノミストは信用できるか』の終章の論旨とは違うのだが、共感したトピックがあった。それは「経済学は国民の「心理」を扱わないのか」という言葉だ。東谷氏はここではインフレターゲット論者が使う「期待」という概念に対し経済学が「心理」を扱うことに対する批判があったことに対する疑念を述べているのだが、そもそも人の購買行動という経済学の”基本のキ”からして人の心理が左右する。

 

 MMTなどとほぼ同時期に行動経済学が注目されたのはその現れだろう。でもダン・アリエリーなどの行動経済学書の面白さは、むかし心理学界隈を賑わせた「アフォーダンス理論」じゃん、と思ってしまう。しかもそれが説く理説は「人は見返りがないほど仕事にやりがいを感じる」といった、むかし流行った経営者に都合のいい、労働者をタダ働きさせる行動心理学の理論と同じじゃん。

 

 自分が感じていた違和感ははしかしそこではない。そういうことより「小難しいことを偉そうに上から言われて、わかんね−奴はバカだといった態度をとられて人は説得されるか」ということだ。具体的には「さざ波」発言で内閣参与をクビになった経済学者だ。どんなに人を愚弄しても彼の云う政策に拠って経済が爆上げしたのならともかく、リフレ政策は第二次安倍政権になって以来国政に取り立てられ、八年もそれが施行されてきたのにそうはなっていない。

 

 これを失敗だったと断じるMMT派も「国の財政は家計のメタファーでは語れない」といった常識転覆をしてそれを理解できない人や為政者を(リフレ派以上に嘲笑的なスタイルで)批判している。その”覚醒の語法”が一部の人に好まれるのはそれを理解した人の選民意識をくすぐるからだろう。"MMTer"という言葉があるが、それは主にSNSを通じて広まったようだ。ひとたびMMTをのみこむことができれば討論番組やワイドショーなどで「国の借金」という言葉が飛び出すたびにツイッターで「こいつバカだ」「国の赤字は国民の黒字」などとつぶやくことができる。

 

 

MMTER

 

 MMTが間違っていると言っているのではない(自分には判断できない)、経済オンチの自分ですら理解できてしまう単純さに罠があるような気がするのだ。

 

 MMTの入門書を数冊読んでから普通の経済書を読むと驚くのはMMT派の主張の異様なわかりやすさだ。数式も全くといっていいほど登場しない。だいたいのパターンは「誰かの赤字は誰かの黒字」「PB凍結」「お金は税金を払うためのもの」「税はインフレをコントロールするためのもの」「貨幣発行権を持った国は財政破綻はしない」「オカシオ・コルテスも言ってた」「コルテスもケルトンも美人」といったところか。

 

 そして自身の正しさを担保する「われわれは主流派から批判されている」というご法難の話法。

 

 MMTのエヴァンジェリスト藤井聡教授や山本太郎議員のMMTトークは最早話芸になっている。

 

 

 

 最近山本議員は自分たちの主張はMMTとは無関係と言っているようだけど、素人には見分けがつきませんよ。

 

 それにしても気がつけば何やかんや言ってMMT関係の本に既に一万円以上突っ込んでしまっている。リターンはゼロ(自分の出費は本屋の儲け)。一流の詐欺師は騙した相手に「いい夢を見せてくれてありがとう」と言わせるというけど、MMTの本は確かにそれくらい面白かった。以前は新書が数冊しかなかった入門書も経済書コーナーの一角を占めるようになって、解説者(必ずしもMMTを信じきっているわけでもない)も増えた。

 

 東谷暁氏は『エコノミストは信用できるか』の冒頭で九〇年代の経済本の隆盛をこう表現している。これは今も当てはまるだろう。

 

繁栄したのはエコノミストだけ。