【わたしの人生の履歴書】
~パート1~
わたしは、現在も住む愛知県豊橋市に生まれました。
何でも、自分の好きなように作ることが好きな子供でした。
祖母が手芸用品をたくさん持っていて、小学校に上がるころから手芸を教えてくれていたことも影響しているのかも知れません。
自分でデザインしたバッグや小物、知育用のフェルトおもちゃ、マフラーにセーター、手芸や裁縫が大好きでした。
売っていないもの、自分で考えたまだ見たことのないものを作り出すことは、この上ない喜びでした。
夏休みの自由研究なんかは大好物でした。自由に課題を見つけられる!こういうのにワクワクしていました。
半面、決められたことをやるのは嫌いで、3歳からクラシックピアノを習っていましたが教本通りのレッスンにはどうしてもなじめず、
幼稚園の頃は、ピアノの時間になると自家中毒を起こしていました。
性格が真面目だったからか頑張って教室に行き、レッスン中に気持ち悪くなり鍵盤に向かって思い切り嘔吐してしまったことも
あの鍵盤ってその後どう処理されたんだろう
未だに分かりません
それでもピアノを弾くのは好きで自分が弾きたい曲だけを弾いていましたね。ただ基礎練習をさぼり倒したため、上達することはなく
高校3年生でピアノは卒業。
手芸、絵を描くこと、字を書くこと、音楽、料理、自分らしい洋服のコーディネイトなど、そんなことが楽しくて仕方ありませんでした。
また、運動や水泳や、ダンスのようなことも小学生からは好きでした。
最初にはまったのはバトントワリング。次がリズム体操、創作ダンス、そしてソフトボール。
小中学校ではがっつりソフトボールをやっていたので、首から上真っ黒でショートヘア、スライディングで泥だらけになった体操服で
帰宅する毎日でした。県大会に出場するくらい強いチームで、5番センターでまあまあ活躍していたのですが、
実は、勝ちたい、とか、チームプレー、には全く興味が ありませんでした。
だって、自分らしい表現が好きだったから。
その頃の仲間や先生には申し訳ないですが、本当のことだからしょうがない(ごめんなさい)
ソフトボールで、私は、何を目指していたか、というと
・ バッティングでいかにボールの芯を捉え、気持ちよく打てるか。
・ 外野からキャッチャーまで、いかに良いボールを返せるか。
だけを、密かに追求していました
で、ルールとか勝つとかは、私の頭にはなかったので、
バントのサインが出されても無視 ひたすら気持ちよく打っていたら、ファールボール20連発みたいなことになってましたね。
センターから2塁に返すべき時も、キャッチャーに返しちゃったりして。 アウトを取ることには興味がなかったですね
酷い選手でした
表面的には反抗もしないし、模範的な生徒、良い子でしたから、まさか誰もわたしの思いには気付かなかった、と思っています。
頭の中は自由で、何物にも支配されず、幸せでしたね。
好きなこと、楽しいことが多くて、将来何を目指すか、は悩みました。
創作することが好き、体を動かすことが好き、自分らしく表現する事が好き、
そこで思いついたのは、新体操!
自分の体を使って、自分を表現する、ダンスで創作もできる! これだ!と思いました。
しかし、担任の先生から、ある、と聞いていた新体操部は、入学した高校にはありませんでした。
祖母と母が薬局を営んでいたため、気持ちを切り替えて薬剤師を目指そうと、1学期間、まじめに勉強してみました。
しかし、数学の才能はなく勉強にたいする興味も膨らんでは来なかったため、あっさり断念。
放課後新体操部のある私立高校に行って混ぜて貰ったり、友達を誘って文化祭でダンスのステージを創ってみたり。
進学校だったため、勉強の妨げや勝手な行動は、教師には煙たく映ったことでしょう。
しょっちゅう呼び出されていました。
でも、そんなことは全く気にせず、学校をさぼり、新体操の代わりに、と思って習い始めたジャズダンスにのめりこんでいきました。
衣装づくりでは大好きな裁縫も出来るし、自分でデザインした衣装を作るのも楽しくて。
逆に学校での居場所は、なくなるばかりでした。
それでもかろうじて卒業できたわたしは、
晴れて、東京のダンス専門学校に進むことになったのです。
続きは【わたしの人生の履歴書】パート2にて
https://ameblo.jp/deepsoul-walk/entry-12615120389.html