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【わたしの人生の履歴書】 ~ パート2 ~
上京し、ダンスの専門学校で2年制のダンス留学科に通い始めた私は、毎日バレエ、ジャズダンス、モダンダンス、振付、整体、
舞台メイクなど、ダンサーに必要なレッスンを受け楽しい日々を過ごしました。
話題もダンスのことばかり、友人からもたくさんの刺激を受けました。
1年の締めくくりの公演が行われる頃になると、また私の悪い癖 「自分のやりたい事だけやりたい病」 が顔を出してしまいました。
もっと現場で修行をしてみたかったのかもしれません。 それと、色んな表現を学びたかった。
ジャズボーカル、フラメンコ、ミュージカル、創作ダンス……アルバイト代をつぎ込んで様々なことを習いに行ったり、
舞台を見に行ったり。 生活を考えずお金を使いました。
結果、 住まいは、 安全な女子寮→ 綺麗なアパート→ 風呂なしボロアパート に。
親からの仕送りはあったものの、生活費はいつも底をつき、 窓ガラスは割れたまま、ボットン便所のボロアパートのシンクが
お風呂替わりでした。もちろん水しか出ません。
食事も母から送られてくる干し椎茸の煮物とか、人参の煮物など。100円の食パンや1L牛乳を買いおいてしのいでいましたね。
ジャズボーカルは歌が上手くなくて即断念、 フラメンコはお金が続かず✖、 唯一のめり込んだのは演技の世界。
私は、小さなプロダクションに入りました。
週に数回演技の訓練に通い、映画のエキストラなんかをやっていました。
そして、流れで、児童劇団の客演として団に出入りするようになり、東北から沖縄まで全国をどさ周りしました。
美しいものへの憧れも強く女優にもなってみたくて、沢山オーディションも受けました。
でも美人でもないし面白い顔でもないと言われ、いつも評価されるのは体を使った表現ばかり。
どさ周りを卒業した私は、新宿歌舞伎町にあったいわゆるキャバクラでフィリピン人のシンガーやダンサーに混ざって
歌ったり踊ったりしていました。 これはかなり楽しかった。
アメリカスタイルでジャズスタンダードソングに合わせて踊ることが多かったですね。
今でもそうですが、外国人は何故か気が合うので、フィリピンの女の子たちやおばちゃんシンガーさんといつもお喋りしていました。
でも今思えば、怖い場所でした。 風俗に行っちゃう子や、お店のスタッフに脅されて軟禁されてしまう子、
殺人事件に巻き込まれ殺されてしまった子もいました。
そして私は、ニューヨークへの短期留学を脅されて差し止められてしまい、学校に戻ることもなく知らない間に中退扱いになってました。
いい加減進む道をはっきりさせなくてはいけない時が来ました。
歌も演技も芽は出ない、やはり私は肉体労働しかない!ダンサーになろう!と決めました。
アメリカのミュージカル映画は大好きで特にコーラスラインは死ぬほど好きで100回は見ましたね。
劇団四季を進められ、四季の先生のバレエクラスにも頻繁に通っていましたが、
どうしても日本語で歌うミュージカルは好きになれませんでした。
そんな時出会ったのが、当時男性ダンサーが若い女性たちに絶大な人気を博していた「アロック・ダンスドラマ・カンパニー」。
人間味あふれるドラマはダンスと演技だけで進行されます。セリフはないのに観る人の心を揺さぶる真に迫る演技、
そして何と言っても、人間の身体の極限まで使い、爆発するようにエネルギーを放出させるような激しいダンスが凄かった。
客席で私は号泣!泣きじゃくりました。
その瞬間、ここに入団する!と決意。
すぐに連絡をし、オーディションを受けました。
面接と即興ダンスだけというシンプルなオーディションでした。
すんなり合格し(アロック愛があれば誰でも入れたんだと思います)、アパートを引き払い、当時八王子の田舎にあった合宿所に入所。
翌日から364日休みなく続くダンス漬けの毎日が始まりました。(元旦だけ稽古がお休みでした)
21歳でした。
同期は女子4人。一人は1週間もせずにいなくなりました。1年後残ったのは二人だけ。
その後も何人か入って来ましたが、先輩から聞いていた通り、しばらくすると夜逃げ、みたいになっていましたね。
後に私も夜逃げすることになるのですが、ここでの2年は生涯忘れられない本当に楽しい日々でした。
夜のアルバイトはしていたものの、ダンスをするためだけ、ステージのためだけにに生きている、という感覚でした。
午前9:30からのジョギングに始まり、夕方5時まで、基礎訓練や振付練習、舞台のリハーサル。
空き時間やアルバイトのない夜にはいつも一人けいこ場で練習していましたね。
ダンスだけを追求していたあの生活に戻りたくて、夜逃げしたのち10年程何度も再度オーディションを受けたいと、夢に見たのでした。
入団から1年半が過ぎた頃、違和感を感じ始めました。
恋愛禁止、友達と会ったり飲みに行ったりも禁止。
舞台の上での役柄しか演じることの出来ない実態のない人間にされてしまう、これじゃ人間とし片輪になってしまう、
という思いが迫ってきました。
夜のアルバイトで最初の旦那さんになる男性に出会った事も、もちろん影響していたに違いありません。
でも、今でも私は、事実は小説より奇なりじゃないですが、創られた映画、舞台、小説よりなにより、実際に体験することが
何よりも心を成長させ、人生を豊かにする!と信じています。
母になったことのない人に母の本当の気持ちは分かりませんし、
恋に落ちたことのない人に、恋に身を焼き尽くす女は演じられない、と思うのです。
ダンスは追求したいけど、恋愛もせず、友達も作らず、母にもなれず、アロックのダンサーでしかない人生は嫌だ!
こう思った私は、入団から2年足らずで夜逃げすることになったわけです。
本当の夜逃げでしたよ。バレてはいけないので、買い物行って来ると言ってジャージのまま新幹線に乗り、
実家に帰ってしまいました。
その後団から実家に連絡が入り、公演のチケットのノルマで売り切れなかった分の70万円余りの借金を返済し
アロックとの縁は切れました。 (親に払って貰った気がします、ひどい娘です)
アロックはその後、メインダンサーが辞め、だんだん規模を縮小し、今では消滅してしまったかどうかも定かではありません。
重~い話でしたね
忍耐強くお読み頂き、ありがとうございました
しかし、まだまだたった22年。 ここから更に波乱万丈な人生が待っているわけです
続きは 【わたしの人生の履歴書】 ~ パート3 ~ にて