「完全記憶探偵」デイヴィッド・バルダッチ (関麻衣子訳/竹書房) | 水の中。

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フットボールの試合で受けた脳の損傷により、エイモス・デッカーは人生のすべてを失った。ようやく手に入れたはずの刑事としての生活の中で、妻と娘が何者かに惨殺される。
再びすべてを失い、その日暮らしの探偵として生きる彼に、殺人犯から仕掛けられた罠とその犯行の真意とは?

 

 

 

えーとですね、大人になるにつれてなんつーかこう、他人に厳しく物を言うことがなくなっていくような気がする今日このごろです。
だってさー、自分の身の程を思うと、他人様のつくる物語が自分ごのみに完璧でなかったところで、何をブーブー文句をたれなくてはならないのか?
それって美しくねえよな、と。
そういうわけでそのような思想からくる(たぶん)感想です。

 

この物語、あーなるほどエイモスの造形はとても魅力的で、なまじのハードボイルド主人公よりもハードボイルドな反応しかできないはずの彼なのですが、この「情緒的な部分が破壊された脳」を持つはずの主人公が、クライマックスで真犯人へ放つ言葉の、ものすごい違和感。

いえ、すんごい良いせりふなのですよ。読み手としてのカタルシスがあるだけでなく、物語上のご都合主義が垣間見える犯人のむりやりじゃね?な動機にさえ、なんとなく説得力を与えてしまう、クライマックスのこの叫び、とても良い内容なのです。


いやしかし待て、だけどそういうのはさー、この人の脳からひねりだせる感覚ではないはずじゃないか?
なんかヘンじゃないか?

 

こういった異能キャラクターの輪郭をきっちり描写することは難しく(日常行動までウォッチできる対象はなかなかいませんしね)、
だからこそこの部分こそが創作の腕の見せ所なんだろうなという気がするのですが。
そこが上手くいっていないように見えるのは、もしかしたら私自身がこの系統の人とかかわりを持ったことがある人間だからなのかもしれません。
現実には全体像や行動様式がつかみにくく、説明が立てにくい。同じ行動をするかもしれないし、しないかもしれないし、そのことへの理屈もついたりつかなかったりするはずの、その揺らぎが上手く表現されていないので、なんだかキャラクターが嘘くさい。フィクションだからこそ、もうちょっと信じさせてほしいのにー!、という不満が残ってしまいました。


本作には続編があるようですが、シリーズ化するとしても、この物語の魅力もダメなところも全て、エイモスという主人公の造形によるところが大きいので、その描写しだいでどうにでもなるのだろうなという気がします。
ちなみに私は物語終盤まで、記者の女性があやしいなーコイツなんじゃねーのと思いつづけていました(考えすぎ)。