サトウユウイチのごすぺる放浪記 -818ページ目

Sさんのこと

 年末年始とパソコンが壊れていたのは以前に書いたとおりなのですが、パソコンが手元に戻っ

てきたあと、たまっていたメールを整理していたときに、その中に北見男声合唱団からのメールが

あることに気がつきました。


 それは、Sさんが亡くなったことを知らせるメールでした。

 1月2日に入院先の病院で亡くなり、4日に親族のみで葬儀が行われたとのこと。

 もう80歳近いお歳だったことと、闘病生活を送っておられたことから、正直なところ、いつかこの

日が来ることを覚悟していました。

 だから今は、亡くなられたことを残念に思うよりも、最後の1年間を北見男声で一緒に歌うことが

できた喜びのほうを大きく感じています。


 Sさんは、僕にとっては単なる北見男声のメンバーの一人ではありませんでした。

 彼とはじめての出会いは、もう10年近く前にさかのぼります。

 当時、北見市内にある多数のキリスト教会が、教派の違いを超えてともにクリスマスにクリスマス

・キャロルを歌おうという会ががありました。 各教会の教会員ばかりではなく、広く一般の人々から

も参加者を募り、年に1回、12月のはじめに北見市内でコンサートを行っていました。

 当時、まだ北見に住んでいて教会員の一人として参加した僕と、一般の枠で参加して来られたS

さんがともに同じステージに立ったのが、最初の出会いでした。


 Sさんは当時ですら70歳を超えておられたのですが、僕からは彼に歌い方のテクニックやキリス

ト教のことを教え、彼からはゴスペルやプレスリーの話などを教えてもらいながら、僕らは自然と仲

良くなっていきました。


 Sさんは、音楽に関しては僕以上に意欲的なかたでした。

 当時、北見男声合唱団と北見混声合唱団の両方に所属しながら、もっとさまざまな音楽を歌いた

いという希望を持っておられました。

 当時、僕らがはじめたゴスペル・クワイアも、歳が若かったらぜひ一緒に歌ってみたかったと言っ

ておられましたし、もちろん、ゴスペルのステージは体と時間が許す限り必ず聴きに来てくださいま

した。


 とある事情から、僕がア・カペラのチームをつくることになったときも、率先して力を貸してください

ました。

 エルビス仕込の正統派ゴスペルを歌いこなすことができる彼に、どれほど助けてもらったかわか

りません。


 彼は会うたびに僕に歌い方や音楽のことを教えて欲しいと言ってこられましたが、僕のほうがはる

かに多くのものを彼から学んだと確信しています。


 Sさん、今日まで本当にありがとうございました。

 いずれまた、僕も貴方のいる所に行きますから、そこでまた一緒に、今まで歌ったことのなかった

歌を歌いましょう。




 最後に、彼が僕に話してくれたことからいくつかをここに書いておきます。

 北海道の北見に、音楽を心から愛した一人の男がいたことの記念に。


☆☆☆☆


 僕は旧満州は大連の生まれ。

 僕が通った小学校は、集中スチーム暖房などの最先端の設備だった。

 後に中国人の友人に「日本は中国に確かに悪いことをしたが、社会資本を整備したという意味で

は必ずしも悪いことばかりじゃなかったんじゃないか。」と言ったことがあるが、「それは日本が中国

から国力を吸い上げるためにしたことだ。」と言われた。

 確かにそうかもしれないと思った。


☆☆☆☆


 ラジオからエルビス・プレスリーがはじめて聴こえてきたときのことを今でも覚えている。

 今ではあまり知られていないが、エルビスはゴスペルやブルースが大好きだった。

 そして彼の登場依頼、ラジオから流れてくる音楽ががらりと変わってしまった。

 僕もさっそくギターを手に入れ、毎日夢中になって弾いた。

 戦争がはじまると「敵性音楽」となったが、隠れて弾いていた。


☆☆☆☆


 戦争が終わり、ソ連軍が満州に進駐してきた。

 怖かったが、優しくて子供好きな人も多かった。

 彼等が街に来たときには、素晴らしい男声四重唱の軍歌とともに進軍して来た。

 そんな彼等が酒場で酔っ払うとすぐに皆で歌いだすのだが、それすらちゃんと男声合唱になって

いたのは驚きだった。

 失礼ながら、シベリアを越えて満州に進駐してくる陸軍の兵隊たちが、それほど教育程度の高い

人達だとは思えないのだが、そんな彼等ですらこれほどの合唱を歌うのだと思うと、もしかすると西

洋音楽の敷居は僕らが思っていたほど高いものではないのかもしれないと思った。