人生は賭けだ。信仰も賭けだ。
今日は、イースター礼拝。
毎年書いてますけど、北海道ではイースターを迎えると、ようやく長い冬が終わって春がやって来ると実感しますね。
「先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(ヨハネによる福音書20章8節・9節)
クリスチャンは、イースターの前の数週間を受難節として、冬の寒さがもっとも厳しくなるこの時期に、イエス様が十字架につけられた(受難)ことを覚えるのですが、受難日のあとの最初の日曜日に、イエス様が死から復活されたことを春の訪れとともにお祝いするのが、イースターです。
今日の礼拝説教では、秋山牧師が「来て、見て、信じた」と題してメッセージをされました。
今日の聖書箇所において、空になったイエスの墓に駆けつけた弟子は、来て、見て、信じて、その後に理解する。
ここに、キリスト教における信仰の理解の本質がある。
今の世の中は、まず最初に理解することから始めようとする。しかし、理解ではじめたことは、結局、理解で終わってしまう。
命の輝きのためには、まず来て、次に見て、最後に信じる。理解することは、そのあと。
来ること、見ることは誰でも簡単にできる。しかし、信じるということは、ひとつの賭けである。
しかし、最後に理解するためには、その賭けに打って出る必要がある。
その瞬間、その人の命は祝福を受けて輝き、新しいステップへと進む。
理解は、そのずっと後に、おまけとして与えられる。
信仰の賭けは勝ってうれしく、負けて恵みを受ける。
だから、来たるべき年度を私達は、勇気をもって、来て、見て、信じよう。
