サトウユウイチのごすぺる放浪記 -642ページ目

なぜ、みんなゴスペルが好きなのか?

 いや、「みんな」ってのは、さすがに言い過ぎだな。
 クラッシックしか聴かない友人は、「コーヒーを飲みながらCDを聴こうと思っても、ゴスペルは合わないんだよな。」と、言ってたしな。
 さらにその友人はバッハしか聴かないし、世の中には、いろんな奴がいるからな。

 ワークショップの最終日に、昼飯を食べながら じゅん さんと話しをした時に、もう10年くらい前にNNCの当時のメンバーに話した話を思い出してたんだよね。

「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。』イエスは言われた。『やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。』」(マタイによる福音書9章38節~41節)

 ゴスペルを歌っているノン・クリスチャンの人が、いつか必ず考えることは、「クリスチャンでない自分が、イエス・キリストを讃える歌を歌ってもいいものか、あるいは、教会の人達は自分たちのことをどう思っているのだろうか。」ということなんだろうと思う。
 教会の人達がどう思うかは、だいたい3種類に分けられるね。
 ひとつは、まあ、それはそれでいいんじゃないかと思う消極的容認派。
 もうひとつは、ノン・クリスチャンが歌うゴスペルに何か意味があるのか?と思う、否定派。(すまん、昔の僕もその一人だった。(笑))
 そして、ごくまれに、積極的にその中に飛び込んで行こうとする積極的容認派というのが存在する。
NNCに入団していたときの僕や、釧路パワー・プレイザースのカウエル宣教師ご夫妻がそうだね。

 でまあ、その、10年前にNNCのあるメンバーに、「クリスチャンでない私たちがゴスペルを歌っていて、本当にいいのか?」と聞かれたときに、与えられたのが上の聖書の言葉だった。

 実際にゴスペル・クワイアーに籍を置いてゴスペルを歌った人ならわかると思うのだけど、たとえクリスチャンでなくても、ファンタジーではゴスペルは歌えない。ゴスペルを歌っているときは、必ず心は神様に向かっているはず。そして間違いなく、神様はその心を受け取られる。
 つまり、ゴスペルを歌う、ということは、嘘や格好つけではできない。(まあ、それもまれにいるがね。(笑)) ゴスペルは、調和のとれたただの音の羅列ではなく、本物の歌だということが、人々の心を引きつける大きな理由なんだろうと思う。


 そういえば、以前、ここでK田さんや北千住の魔法使いと、「その場にいない人、あるいは死んでしまった人や、神様のことを想って歌ったら、その歌はどこへ行くのか?」という話をしたのは記憶に新しいところだけど、それを思い出すね。


 教会の人間としては、ぜひ教会に通って、洗礼も受けて、すっきりした形でゴスペルを歌って欲しいなとは思うんだけど、神様との関係はあくまでも個人の問題だと思っているので強要はしません。
 北見望が丘教会の「伝道部長」としては、かなり問題のある発言だとは思うんだけどね。(笑)