祈り続けよ
やらなきゃならないことは、まだまだヤマのように残っているんですが、
土曜日は、ひたすら寝てましたね。まさに爆睡。
そして今日は、礼拝終了後に新年度第一回目の定例役員会。
小さな教会ですが、やんなきゃならないことは山積みです。
とはいえ、ありそうで無かった日本キリスト教団北海教区の、
道北支部と道東支部との間の交流が始まりそうで、ちょとワクワクしてます。
そういえば、今日は「母の日」ですね。
もともとアメリカの女の子が、亡くなってしまったお母さんをしのんで、
お母さんが日曜学校をやっていた教会の人達に、カーネーションを贈ったのがはじまりとか。
さて、また例によって今週の礼拝説教の概要を書いておきましょう。
今日の聖書箇所は「ヨハネによる福音書」第16章16~24節まで。
「祈り続けよ」と題して、秋山先生がメッセージを行ってくださいました。
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(ヨハネ16:16)
「女は子供を産むとき、苦しむものだ。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」(ヨハネ16:21)
今日の聖書箇所は、「最後の晩餐」における「分かれの説教」と呼ばれている。
このあとすぐに、イエス様は逮捕され、十字架に向かわれることになる。
「しばらくすると」とはギリシア語では「ほんの少し、一寸先」という意味である。
「一寸先には私を見失うけれでも、さらに一寸先にはまた私を見るようになる。」
「一寸先は闇だけれど、さらに一寸先には光(希望)を見るようになる。」
それを信じて生きるときに、私達は、私達自身を取り巻く闇のなかを歩いていくことができる。
そのとき、私達をとりまく苦しみは、単なる苦しみではなく、産みの苦しみとなる。
産みの苦しみ、産みの悲しみ、産みの痛みというものがある、ということを、私達は覚えたい。
苦しみ、悲しみ、痛みにはこそ、創造的な力が秘められている。
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰めれられる。」(マタイ5:4)
だからもし、いま、苦しんでいる人、悲しんでいる人、痛んでいる人がいるとするならば、その人こそ、創造的な人だといえる。
聖書のフィルターを通して見るならば、その人こそ創造的な人であり、神の真理を表している人である。
逆に、神の真理を生きようとするならば、その人はどうしても、苦しみ、悲しみ、痛みを通らなければならない。
では、どうしたら、そのようなイバラの道を歩んでゆくことができるのか?
それが、23節に書かれている。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16:23-24)
イエス・キリストの名によって願う、つまり、祈ること。
祈ることによって、聖書の言葉によって生き、イエス様とつながることによって私たちは、闇の中を歩んでゆくことができる。
ながく、たゆまず、しぶとく、私達を闇の中を歩ませるものは祈りしかない。
祈りこそが、闇の中の私達を支え、はげまし、導き、後押しをしてくれる。
そして、その先にある光に、私たちを到達させてくれる。
だから、苦しんでいるとき、悲しんでいるとき、痛んでるときこそ祈りましょう。
祈ることをあなどってはいけない。祈りこそが、生きる上での根本的な力、神の神秘である。
それゆえに、祈り続けましょう。
(メッセージ、ここまで。)
☆☆☆☆
聖パウロというのは、ペテロとならんで、キリスト教においては重要な位置を占めています。
もともと、人として歩んでおられたころのイエス様に会ったことがないばかりか、
もともとキリスト教徒を迫害する立場の人だったのですが、
改心した後、東地中海世界を精力的に歩き回って初期の教会組織の形成に尽力しました。
そのパウロですが、彼は、自分の身に一つのとげが与えられていると告白しています。
この「とげ」がなんなのか?何かの病気か、あるいは身体的なハンディキャップか、それは分かっていません。
いずれにせよ、彼は神様に、この「とげ」を自分から離れさせてくださいと願うのですが、神様からの回答は次のようなものでした。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(コリントⅡ12:9)
もしかすると、いま、このブログを読んでいる人の中には、苦しみの中にいる人がいるかもしれません。
その苦しみがわかります、とは言いませんが、
どうか、その闇の先には光があることを信じて、祈りつつ歩んでほしいと思います。
もし、あなたがクリスチャンではないのなら、僕が代わりに祈ります。
