池を勘違いしたのも、自分らしいと言えば自分らしいのかもしれない。
それでも僕は、ここが本命の池だと信じ込んでいた。
アーティストとアドニスと、一番のバス
泥水のような池で、まったく気は進まなかったが、とにかく釣りをしようと準備を始めた。
アーティストにオールアングルを合わせ、当時お気に入りだった5500のブラウンをセットする。
惚れ惚れするほどかっこよかったが、同時にひどく空しかった。
「もう二度と、このタックルを使うことはないかもしれない」
そんな気がしていた。
こんな大事な釣りなのに、いつものレギュラーメンバーは何ひとつ持ってきていない。
テラーも、ビッグラッシュもない。
岸辺に立って、ルアーの選択にひどく迷った。
結局、無難にマグナムトーピードを結んだ。
もちろん、現行モデルを自分でWフックに改造したやつだ。
そして振りかぶり、この池での記念すべき第一投を放った。
アーティストは素直に曲がり、程よくルアーの重さを乗せながら、しっかりと受け止めてくれる。
それでいて負けない粘りもあって、とても気持ちよかった。
ほとんど使っていないのに、不思議と安心して投げられる気がした。
すぐに手に馴染んだように感じた。5500との相性も抜群だった。
まるで自分が少しうまくなったような気がして、気分がよくなった。
L字型に入り組んだワンドの先から、岸沿いにキャストを続けていった。
何投目かのとき、岸ぎりぎりのブッシュ際を狙って投げた。
ルアーが草に引っかかり、そのあとポトリと水面に落ちる。
「いい感じやな」
そう思った瞬間、「ピチョン」と水面がはねた。
「……!?」
魚が出た?
僕は信じられなかった。
バスじゃないかもしれないが、明らかに魚だった。
死んだ池じゃない。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
一人で笑ってしまった。
嬉しくて仕方がない。胸の奥から、じわっと希望が湧いてきた。
それからは、もう必死で投げ続けた。
手前のポイントを打ち尽くしたので、今度はさっきまで投げていた方向へと少し移動した。
さすがに、いま自分が立っている足元からはもう出ないだろう。
そこで少し遠投して、対岸のオーバーハングを狙うことにした。
ルアーは、透明なクレイジークロウラー。
何の変哲もない現行品だけれど、一緒にたくさんのバスを釣ってきた相棒だ。
遠投だったので、少し力を入れて投げた。
ルアーは思った以上に飛び、あっという間に枝に引っかかってしまった。
最悪なことに、太い木にぐるぐると巻きつくように絡んでいる。
押しても引いても、びくともしない。
もう切るしかなかった。
ラインを無理やり切り、枝先でぷらぷらと揺れている大事なルアーを見上げて、情けなくなった。
「もうやめようかな」
そう思ったとき、ふとタックルボックスの片隅にあるルアーが目に留まった。
アドニスの「クラッパー」というルアーだった。
発売当時、「絶対に羽が開く」というのが売り文句だったはずだ。
現行クレイジークロウラーの羽の開きの悪さに閉口していた僕は、その言葉につられて買った。
けれど、どこか垢抜けないデザインが好きになれず、ほとんど使わないまま眠っていた。
「これにしよう。これなら、なくしても全然かまへん」
そんなノリで、クラッパーを結んだ。
そして再び、対岸のオーバーハングを狙ってキャストした。
アドニスは思ったより重く、その分だけよく飛んだ。
そのせいで、サミングがわずかに遅れた。
だが、その“遅れ”がよかった。
垂れ下がった草を突き破り、遅れた分だけ奥まで滑り込んでいった。
偶然にしては出来すぎなくらい、これ以上ないところに入った。
幸い、ラインも枝には絡んでいない。
僕は慎重にクラッチを戻し、糸ふけを取る。
二、三秒ポーズを入れてから、また慎重にリールを巻き始めた。
コポ、コポ……。
アドニスは弱々しく泳ぎながら、いい感じの波紋を広げていく。
「ええ動きやな」
そう思うようなアクションだった。
しかし何事もないまま、オーバーハングから五十センチほど出てきてしまった。
「あかんか……」
少し失望しかけた、そのときだった。
「バシュッ!」
水しぶきが上がり、アドニスが一瞬で消えた。
「……!! うおおっ!」
バス!?
信じられなかった。
思いきり合わせを入れ、必死でリールを巻いた。
潜っていた魚が、今度は大きくジャンプした。
バスだ。
そのあとは、それほど抵抗も見せずに寄ってきた。
最後は、ひょいと抜き上げるようにして、そのバスを手にした。
きれいだけれど、痩せた小さなバスだった。
僕は、口をパクパクさせて暴れるその魚を手に持ちながら、まだ現実とは思えなかった。
「嘘みたいや……」
心の中でそう呟いた。
こんなところでも、バスが釣れるんだ。
ちゃんとやることをやれば、バスはちゃんと釣れてくれるんだ。
じわじわと嬉しさがこみ上げてきた。
心の中で「すごい、すごい」と何度も繰り返している自分がいた。
本当に嬉しかった。
この一匹のバスに、感謝したい気持ちでいっぱいになった。
そっとフックを外し、足場が高かったので、心の中で詫びながら、池へ向かって丁重に放してやった。
一番大事な一匹
釣りは、もうやめだ。
たった一匹だけど、十分だ。
すぐに、家で待っている嫁に報告しようと思った。
「あのな、バスが釣れたんや。だからな……」
ここまで想像して、僕は口をつぐんだ。
嫁はわけが分からず、きょとんとするだけだろう。
そして、この胸の高鳴りは、きっと理解されない。
本当は、この思いを分かち合いたかった。
けれど、それは無理な相談だとも分かっていた。
この、最後になるかもしれない、いろいろなものがかかった釣りで、一本釣ることができただけで、僕には十分だった。
そのあと、すぐに家へ戻った。
家で嫁に何を話したのか、記憶はない。
たぶん、何も喋らなかったのだと思う。
ただ、満ち足りた気持ちでハンドルを握り、家路についたことだけは、今でも鮮明に覚えている。
この日を境に、転職や新生活への不安は、少しだけ小さくなった。
ほんの少しだけ、心が楽になった。
不思議なことに、このとき活躍したクラッパーは、その後二度と使わなかった。
間違えた“本命の池”にも、その後三回ほど行く機会があった。
そのたびに鰻ノ手池の横を通ったが、一度も寄ろうとは思わなかった。
そのあと僕は東京へ行き、今でも東京で、なんとか生活を続けている。
結局、バス釣りをやめずにすんだ。
だから僕は、今でもバス釣りが大好きだ。
あれから、たくさんのバスを釣った。
もっと大きなバスも釣った。
いろいろな場所で、いろいろなバスと出会った。
それでも僕にとって、あの日の、あの小さな痩せたバスが、一番のバスなんだと思う。
そして、自分にとって一番大事な一匹なんだと、今でも思っている。


