あれは大学生の頃でした
家庭内で色々なことがあり、所謂機能不全家庭真っ最中だったのですが
私はある日その家庭の事情から、単身で【高野山】へ行くことになったことがあるのです。
そう、真言宗の総本山、弘法大師空海が今も眠る聖地です
私は基本的に「信仰」に批判的な立場に立っており、宗教と言うものは人類の文明史上で興るべくしておきた文化のひとつと捉えています。
そういう意味では大変興味があり、歴史学上、或いは民俗学上、または仏教美術史上大変興味深いものだと言う認識を持っています
私の大学の先攻は歴史学であり、留学後は考古学を、主に仏教美術史的観点から学んでいましたので、そういう影響もあります
ですが、その観点から仏教を紐解くことと、真言宗を信仰されて高野山を詣でる人たちと私の立ち位置はまるで異なりますし、
むしろ信じて救われるなんてものに傾倒することは愚かしいとすら感じていた、そんな年頃の出来事でした
今もまぁ基本的スタンスは変わりませんけれども
(信仰されてる方を批判しているのではありませんので悪しからず。そのへんはまたおいおい書いていきます)
あ、ちなみに世界宗教には民俗学的興味を感じますが、日本で興っている新興宗教にはほとんど嫌悪感しかありませんことは白状しておきます。
特に天○教からは個人的嫌がらせを再三受けた経緯があり、恨みこそあれ、という状態です。
悪しからず。
実は私は13才くらいから不思議な出来事に出くわすことが多々ありまして、それが科学的に説明不可能な事のため、あまりblogで書くものではないと思っていたのですが(笑)、
実はこの【高野山】絡みではひと波乱、とある出来事が起こるのです。
でも、すみません、今回はその波乱の内容ではなく、そこで出逢ったひとの言葉の話です。
(オカルティックな内容を期待されていた方はごめんなさい。オカルティックというかミステリアスなものですが、また別記事で書こうかな?( *´艸`)
私はとある宿坊に宿泊するのですが、そこでYさんというご高齢の女性と知り合いました。
入浴時にたまたま一緒に入っていたのです。大浴場なのでね。
Yさんと私の二人きりでした。
私は軽く会釈程度でしたが、彼女はいきなり多弁に話しかけてこられました。
それも非常に不可解なことをです
ぇ?
え?
えーっ!?
マジですか!?!!ヽ(゚д゚ヽ)(ノ゚д゚)ノ!!
(私、涙ぼろぼろ
という会話でした。
(内容割愛)
そして、高野山をあとにしてからもしばらくの期間私はこのYさんとの交流が続きました。
結婚が決まるくらいまでですね。
Yさんは私が悩んでいると連絡が来るのです。
「今、悩んでるわね」
と。
そして私が求めれば助言をくれました。
私は彼女に信仰心がないことや、高野山になにかを誓うようなことはありえないことは言ってあり、彼女もそれは受け入れてくれており、納得している関係でした。
だからこその繋がりだったのかもしれませんが。
彼女は高野山に修行に来ていた修行僧で(尼僧ですが)、真言密教にかかわる加持祈祷を体得していた人でした。
真偽などは私ごときにはわかりかねますが。
ただ、人として大切なことを教えてくれた恩人であり、あの機能不全家庭の中で私に力を与えてくれた人生の先輩、恩人であることは間違いありません。
彼女は若い私の意見を否定することなどせず、挑戦したいと思っていることはすべきだといつも言っていました。
中国への留学の背中を押してくださったのも彼女でした。
しかも私が赴いたのはかつての長安の都、西安です。
まぁこのへんも仕組まれたかもしれませんが、奇しくも空海がたどった道を辿るように私は西安へと旅立ったのでした。
本当はYさんをお連れするお話も出ていたのですが(とても行きたがっていました)、実現できませんでした。
恐らく今はもう亡きひととなられていると思います。
その彼女が私の結婚の際に、意を決したように放った言葉がありました。
【この結婚はやめなさい。貴女は不幸になるわ】
そういうことを簡単に言うひとではありませんでした。
わかっていた、知っていたはずなのに、若くて浅はかな私は、カチンと来てしまいました。
これから結婚して幸せになろうとしてる若者に何てことを言うのだろう
そこからYさんとのご縁は途絶えてしまいました。
そして今の私がいます。
でも私は思うのです。
私と言う不完全、出来損ないの浅はかな人間には、【あおといと】という二人の存在が必要だったのだろうと。
この二人に出会うことで私は私の人生で自分に必要な修行を受けているような気持ちになることがあります。
私に必要なことを教えてもらっていると言いましょうか。
私の結婚生活は不幸の連続ではありますが、【あおといと】という大きな宝を2つも手に入れたという意味では幸福でした。
もしかしたら別の誰かと結婚していてもやはりこの二人には出逢っていたのかもしれませんが(笑)。
私たちの生きるこの次元と違うところには何かルールがあり、必要と意味があってこの次元の私たちは、様々な出逢いがあり、繋がり、また別れていくのではないかと私は感じています。
科学的ではありませんが(笑)
宗教を頑なに否定する私にYさんはにこやかに言われました。
「奥の院で参拝者を見ていてごらん。その顔を。必死で祈る姿を。信じて祈る姿はそんなに悪いものなのかどうか」
(奥の院とは高野山の一番奥、空海が眠る場所です)
私は言われるまま日がな1日ぼんやりと参拝者を見つめてみました。
きっと一人一人抱えきれない悩みの救い口をここに求めて来た人たちなのだろうと思いました。
信じる信じないは個人の自由。
信じることを否定する権利がないように、信じないことを人に押し付ける権利もない。
目に見えない何かに、それでも救われたいと願うほどの辛い思いを抱えた人たちが切実な願いを持って祈っているように見えました。
人とは弱く、そしてそんな見えないものにも救われるほど強くもある生き物。
今なら少しだけその想いがわかる気がします。
私の実家は真言宗であり、確かに身近にあった宗教でした。
でも今も別段信徒になったつもりはありませんし、得度を受ける気もありません。
(実はとある坊さまから、あんたはほんまは得度をしに来なさったんや、と言われてましたが笑)
それでも私にとって【高野山】だけは何か特別な存在になっています。
壁にぶち当たるとフラりと高野山伽藍の杉の木に触れに行きたくなる癖は今もあります。
私はそこでたくさん泣いたからです。
Yさんが生きていらっしゃったら今の私を見てなんて言うだろう
人生とは不思議なことが満ち溢れていますね。
