こんばんは。


私の履歴書の4回目です。



■前回のあらすじ


「貧乏神」あらわる

「ホテルニューショーヘイ」に泊まる


■緑星学園へ


96年当時、子ども囲碁教室と言えば、緑星学園が最大勢力だった。

トップアマである菊池康郎先生が主宰しており、囲碁の棋力向上だけでなく、礼節や人間性を育てることを目的とされていた。


それ以前の形態としては、内弟子として親元を離れ、師匠のもとに住み込むのが一般的だった。

でも、時代の流れだろう。

子どもを手放したくないとか、経済的な理由、受け入れ側(師匠側)の体制・環境の問題などで、内弟子という仕組みが少なくなりつつあった。

緑星学園は、内弟子も数人いたけど、ほとんどが通い弟子だったので、そういう時代の過渡期にマッチしたのかもしれない。


Sくんと一緒に、東中野の緑星学園へ乗り込んだ。

一軒家をそのまま道場として使っており、部屋ごとにおおよそのクラス分けがされている。

だから、下のクラスにあてがわれた部屋の子どもたちは、上のクラスの部屋に行きたい!というような思いがあったろう。

(阿佐ヶ谷にある、現在の洪道場がまさにこのようなシステムを踏襲している。)


同じ世代の子どもたちがうようよ。

そして、みんな正座をしている。その光景は一種、異様だった。


けっこう負けたように思う。

青木紳一先生に「Sくんと打ったらなかなか強かったけど、村上くんはどうかな?」とプレッシャーをかけられ 馬脚をあらわすのが怖くて、青木先生から逃げていた。


父と話をしたけど、緑星学園は行かないことにした。

理由は、正座。


村上家の教育方針としては、成長期に正座をさせること、足に負担をかけることは不合理だった。

父いわく「正座の歴史は浅い。戦国武将をみろ、みなあぐらだぞ。形式的なものなんだ」と。

今の俺も、形式的なものはあまり頓着せず、実を重視したいという価値観になっているのは、やはり教育方針によるものだろう。


つまり、ちょっと緑星学園は俺にとっては生きにくそうだったのだ。


■趙治勲門下入りに向けて


小5の夏に趙治勲先生と縁があったので、そちらをたどってみた。

橋渡しをしてくれたのは、長野県出身のプロ棋士である中山典之先生(故人)。


中山先生は、碁を覚えられたのが遅く、プロ入りも30歳という遅咲きだった。

文才があり、ライターや編者だけでなく、囲碁にまつわる様々な著作がある。

有名なこのシチョウの問題(珍瓏)も中山先生の作。



中山先生の支援もあり、11月頃になって趙先生から課題を出された。

「1日10局棋譜並べをして、80手まで並べ返しなさい。それを3月まで続けなさい。」と。
誰の碁を並べるか、も指定があり、呉清源先生、高川格先生だった。

平易でわかりやすく、そして棋理に明るいということだろう、と今は理解している。


並べ返しまで含めると、1局20分はかかっていたから、1日3時間以上は棋譜並べをしていただろう。
3月まで1200局強、ノルマはなんとか達成した。

ただ、今もって、これがどれほど身になったのかはよくわからない。


■内弟子に


きちんと課題を果たしたことを認められて、趙門下に入ることが決まった。

小学校の卒業式前だったが、急遽、千葉へ行くことになり、卒業式は欠席。

特にそういうイベントごとは執着がなかったので、さっと長野に別れを告げた。


そのとき、どういう気持ちだったか・・・忘れてしまったな。

プロになるんだ、と真面目に思っていたし、それ以外のことはおそらく考えていなかっただろう。

それでいい、しばらくは。