こんばんは。
前回の記事に書きましたが、「スペースマンでGO!」をよろしくお願い致しますね。
リンク: 4月16日(土)15時~16時半 スペースマンでGO!(音楽家×メイエンワールド)
■アマ名人の記事(朝日新聞DIGITAL)
リンク: 東京)村上さん、都名人奪還 朝日アマ囲碁
*たぶん一定期間後は記事が削除されるので、リンク切れの場合はご容赦ください。
伊藤さんありがとー。
■検索ワード
アメブロは管理画面からアクセス解析、検索ワードがひろえるんですね。
最近のを見てみたら、少数ながら、おもしろ検索ワードが。
・囲碁 40歳から
そんな記事書いてないけど・・・どうやって辿りついたんや。
・電通大レベル
たぶん高校生なんだろうな。
・イ、セルド
おしい。
・囲碁 ワリウチについて
おしい。
・苦しい
どしたんだよ!
■「手割り」という分析手法
私は部分的な形の評価をする場合「手割り」という考え方をよく使います。
例えば、こんな形。
白1とスソアキを狙って迫ってきたのに対し、黒2としっかり守る。
当然と言えば当然の進行であります。
がっちりと守っている黒に白1と迫ってきたのは、あまり響きません。
しなしながら、黒2とナラんだのは、ほうっておいても後続の手がないのに、守りに守りを重ねてしまい、働きに乏しい1手です。
とまぁ、最終形だけを見たら同じ図なんですが、手順を変えてみると、見え方が変わります。
最終形の評価としては確かに「黒がやや働きに乏しい」とは言えます。
でもね、「手割り」を考案したとされる本因坊道策先生には悪いけど、ほんとは手割りってサギっぽい考え方だなぁ、って思ってました。
囲碁は「完全情報ゲーム」というものに分類されます。
つまり、ある局面においてはすべての情報がそこに表れている。
過去がどうだったとか、どういう手順で現在に至ったか、というのは本質的には関係ない(独立している)。
でも、「手割り」は現在の評価をするために、本当にあった過去とそこに至る流れを改変して、現在の見え方を変えてしまう、というようなものなのです。
まるで朝三暮四の故事のように、うまくまるめこんでだましているような感じがね。
「手割り」について調べていたら、ちょうど王メイエン先生の著書「王銘エンの囲碁ミステリーツアー」という本に見解が書いてあるようでした。(以下抜粋)
① 「(前略)本当は、私は『手割り』という考え方は好きではないんだ」
② 「むしろ、相当嫌い。『手割り』というのは、どう見てもハッキリどちらかがいいのに、しぶとく『いいや、そうとも限らないよ』と言い続けるワカラズヤに説明するやり方なんだよね。でも、碁はたいてい一手一手の手順が微妙なものであって、『手割り』をもって何か真実がわかるとはとうてい思えないし、それどころか、『手割り』にするとさらに真実が見えなくなる。何かがわかったと思うのは錯覚だ。つまり、だいたい嘘なんだよ『手割り』は」
確かに、ある局面に至るまでの手順というのは大いに意味があって、その途中に潜む、膨大で、そして表にあらわれなかった変化図というものを無視することはできません。
それに、部分を「手割り」で評価することはできても、それはすなわち盤面全体の整合性を含めた評価にはならないので、これがまた難しいところ。
でもなぁ、プロ棋士ですら局面次第で評価が分かれることなんてよくあるわけだから、いわゆる「ワカラズヤ(=自分とは違う考え)」と議論して、違い視点から物事を見てみる、と捉えれば、なかなか高等なテクニックといえるのかもしれないな。
僕はどっちかっていうと理屈好きなので「手割り」をもっていろんな説明をすることが多いのですが、目が曇っている人を晴らす薬にもなれば、覆い隠すこともできてしまうのだ、ということを肝に銘じないといけませんね。
と、ほんとはAlphaGO VS イ・セドルの第5局をネタに「手割り」について書こうと思ったのですが、前段が長くなったので本日はここまで。
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