今週はオンラインイベントが続く。今日は10/10の死刑廃止デーにちなんで、刑罰理論から見た死刑制度について考える講演をオンライン参加。18:30スタートには間に合わないが、途中参加。
途中ゆえ最初ついて行けなかったが、日本でも戦後は永山事件の判決で、死刑と無期懲役の境目はかなり抑制的であったようである。21世紀始めに一時死刑が増えているが、この頃は地下鉄サリン事件の判決が影響していると思われる。
プロタゴラスの「人は未来のために罰する」、なんと紀元前にはこのような応報ではない刑罰の考え方が存在していた。
とは言え、公警察のような制度は中世まで待たねばならず、私的報復が当たり前の時代が続いた。
刑務所が誕生したのは16世紀、さらに18世紀にはパノプティコン形式の刑務所が生まれる。刑務所は単なる報復から、公的利益(強制労働によって犯罪者に生産活動させる)にかなうものになる。
カントの刑罰思想がなかなかヤバい。更生を求めることは個人の尊厳を踏みにじるから、犯罪者の恩赦は赦さない、という思想。観念論は民主主義と相容れないのか?その後、フォイエルバッハによって法律によって犯罪と刑罰を定める立法の段階へ進む。
19世紀末から20世紀始めには、刑罰の応報主義と立法主義が大きな議論になる。
立法、司法、行政の3つのフェーズで一般予防と特別予防の比重が変わる、というのも勉強になる。
刑罰制度の発展は、公私の分離、公的次元の独立化の道をたどってきた。被害者の報復感情だけを満たすための刑罰であれば、被害者保護としては不充分というのは誰でも分かる話であろう。
そもそも応報刑論は、被害者感情に歯止めがかからなくなり、法制度の根幹を揺るがしかねない、結果的に社会秩序の維持という目的から外れていく、という説明は、やはりプロの法曹家の説得力。
規範意識への訴えかけ、という刑罰理論、分かりやすく言えば、怒るではなく叱るが刑罰の基本。
刑罰精度は公益のために私益を犠牲にする制度であって、人権上、生命まで犠牲にすることは正当化できない、と。
被害者の報復だけであれば、国家が介入して刑罰を行う必要はない。公的秩序の維持のための刑罰制度ということを考えれば、死刑は非常にナイーブな問題である。
今日の重罰化の傾向、犯罪は減っているにも関わらず、メディアによる印象操作であったり、逆に平和であるがゆえに、犯罪事件に過剰な反応を示してしまう、ということか。
個人的には、被害者保護を十分に尽くせれば、死刑廃止への国民感情の抵抗感は下がっていくのではないか、と言う感想。
ということで、刑罰制度を考えることは、民主主義の根幹をなす大事な議論。非常に有益なウェビナーだった。