僕がパラ五輪を見ないからと言って、障害者福祉に興味がないわけではない。障害者アートにはむしろ積極的にコミットしているつもりだし。
そもそも社会的弱者とは何か?肉体的機能に制約がある人たちにもいろいろあり、運動機能の不全もあれば、目や耳などの感覚機能の不全もある。その一方、LGBTQのような性的少数者もいれば、発達障害の人たちも今日注目されている。8月31日には、夏休み終わりでの不登校児悩み相談の番組がEテレで観た。学校へ行くこと自体がつらい。そんな人に「前向きになれ」と言うメッセージ自体が言葉の暴力である。
僕は、選任のコーチにつくことができている、と言う点では、健常者アスリートもパラアスリートも大して差がないと思っている。健常者アスリートだってケガや故障に悩ませているのが常で、乗り越えるものは健常者アスリートもパラアスリートも同じ。
個人的には、乗り越える強さを持った人より、乗り越えられない弱さを持った人を応援したい。言い方は悪いが、オリパラはそういう乗り越えられなかった弱者には手が届かない。もちろん競技を見て勇気をもらえればそれに越したことはないが、トラウマレベルの心の傷を負った人たちには共感どころかプレッシャーにすらなる。
障害者、社会的弱者を応援することは、バラアスリートを応援することばかりではない。
そもそも社会的弱者とは何か?肉体的機能に制約がある人たちにもいろいろあり、運動機能の不全もあれば、目や耳などの感覚機能の不全もある。その一方、LGBTQのような性的少数者もいれば、発達障害の人たちも今日注目されている。8月31日には、夏休み終わりでの不登校児悩み相談の番組がEテレで観た。学校へ行くこと自体がつらい。そんな人に「前向きになれ」と言うメッセージ自体が言葉の暴力である。
僕は、選任のコーチにつくことができている、と言う点では、健常者アスリートもパラアスリートも大して差がないと思っている。健常者アスリートだってケガや故障に悩ませているのが常で、乗り越えるものは健常者アスリートもパラアスリートも同じ。
個人的には、乗り越える強さを持った人より、乗り越えられない弱さを持った人を応援したい。言い方は悪いが、オリパラはそういう乗り越えられなかった弱者には手が届かない。もちろん競技を見て勇気をもらえればそれに越したことはないが、トラウマレベルの心の傷を負った人たちには共感どころかプレッシャーにすらなる。
障害者、社会的弱者を応援することは、バラアスリートを応援することばかりではない。