個人的にサブカルチャーを対抗文化、レベルカルチャーとしての視点で見つめることが多いが、さらに一歩進めれば、近代文明批評の観点も見えてくる。
かつてビートルズがインド音楽に傾倒したことがあったように、ヒッピーカルチャーにはかつて植民地化された地域民族の伝統文化を再度掘り起こすと言う作業があった。その後もサブカルチャー文脈でプリミティブな民俗文化は脈々と引き継がれ、90年代にはゴアトランステクノとして再び脚光を浴びる。(BURST にも、メインは身体改造文化=フェティッシュハーディが多く特集に組まれたが、トランスレイヴの記事も少なからず取り上げられていた)
日本については詳しくはないのだが、柳田国男の「遠野物語」をバイブルとして、松本清張の推理小説などで民俗文化を相対化して現代社会に問う試みはないわけではないと思っている。
民俗文化とはすなわち、非近代文化と言う用語に置き換えても良い。近代文明を批判する上でそうした民俗文化か批判を行う上でアイコンとして機能してくれるから、読み直しが行われる。
さて、欧米ではそうした植民地(英国ならインド文明の引用が多いし、フランスならアフリカやアラブ(北アフリカと言うくくりではこれもアフリカだが))の民俗文化を借用する訳だが、残念ながら共産圏の「植民地文化」はなかなか私たちの目に触れる機会が少ない。
例えばシベリアはある意味、ロシアの「植民地」なのだが(ロシアはヨーロッパだが、シベリアはアジアだ)、統治が共産圏だけに、なかなか西側からこれらの民族を追いかけることは困難を伴い、進んでいない。逆に言えば、宇宙に生命体はいるか、なんて議論をする前に、まだ地上に未知の文明なんてたくさんあるし(文字言語を持たない民族の歴史なんて、口承伝承しか頼れないのだから当然だ)、僕ははるかにそっちの方が興味をそそられる。
どうせ宇宙人を発見したところで、友好関係が結べなかったら戦争になるだけだ。それより地上の未知の文化を再発見し、自分たちの文明を批評する知見を得ることの方がよほど意味がある。
かつてビートルズがインド音楽に傾倒したことがあったように、ヒッピーカルチャーにはかつて植民地化された地域民族の伝統文化を再度掘り起こすと言う作業があった。その後もサブカルチャー文脈でプリミティブな民俗文化は脈々と引き継がれ、90年代にはゴアトランステクノとして再び脚光を浴びる。(BURST にも、メインは身体改造文化=フェティッシュハーディが多く特集に組まれたが、トランスレイヴの記事も少なからず取り上げられていた)
日本については詳しくはないのだが、柳田国男の「遠野物語」をバイブルとして、松本清張の推理小説などで民俗文化を相対化して現代社会に問う試みはないわけではないと思っている。
民俗文化とはすなわち、非近代文化と言う用語に置き換えても良い。近代文明を批判する上でそうした民俗文化か批判を行う上でアイコンとして機能してくれるから、読み直しが行われる。
さて、欧米ではそうした植民地(英国ならインド文明の引用が多いし、フランスならアフリカやアラブ(北アフリカと言うくくりではこれもアフリカだが))の民俗文化を借用する訳だが、残念ながら共産圏の「植民地文化」はなかなか私たちの目に触れる機会が少ない。
例えばシベリアはある意味、ロシアの「植民地」なのだが(ロシアはヨーロッパだが、シベリアはアジアだ)、統治が共産圏だけに、なかなか西側からこれらの民族を追いかけることは困難を伴い、進んでいない。逆に言えば、宇宙に生命体はいるか、なんて議論をする前に、まだ地上に未知の文明なんてたくさんあるし(文字言語を持たない民族の歴史なんて、口承伝承しか頼れないのだから当然だ)、僕ははるかにそっちの方が興味をそそられる。
どうせ宇宙人を発見したところで、友好関係が結べなかったら戦争になるだけだ。それより地上の未知の文化を再発見し、自分たちの文明を批評する知見を得ることの方がよほど意味がある。