ISにしろ、津久井の障害者施設の事件にしろ、今日の大量虐殺は(いやきっと昔もそうだったのだろうが)、矮小な正義感が犯人の動機になっている気がする。あいつらは生きている価値がない、我々の社会には要らない人たちだ、そして自分にはそいつらを殺めても良い権利がある、と思い込んでいるところ。
 これって、意地の悪いアパートの管理人を殺す「罪と罰」の主人公、ラスコーリニフの心情と全く同じだ。作者のドストエフスキーДостоевскийの生きたロシア帝政末期の時代も似たような状況だったのだろう。日本で言えば幕末のような時代、新撰組のような集団が現れて悪いと決めつけたら容赦なく相手を切り殺していた時代。
 矮小な正義感はその誤りに気づくことによって収束する。ラスコーリニフも老女を殺した後、激しい罪の意識にさいなまれ、懺悔する。
 しかし、今日の殺人鬼たちにそのような懺悔の機会はあるだろうか。IS連中はその場で射殺された、後には何も残らない。津久井の容疑者は逮捕はされたが、世論は即死刑の声しか聞こえて来ない(mixiニュースの中だけなら良いが)。安い賃金で働く外国人や、重度の障害者を鬱陶しく思う気持ちは特別なことではない。むしろ、私たち皆が犯人の悔い改める姿を見届けることをしなければ、こうした矮小な正義感の暴走に歯止めはかからないのではないか。罪と罰ではラスコーリニフが悔い改めるところまで話が進む。19世紀の小説が21世紀の今を恐ろしいくらいにリアルに警告している。