☆えんのしたのちからもち
※解説
表面に立つ人のために目立たないところで苦労や努力をすること。 またはその人。
見えないところで人を支え、苦労する人を指す言葉。
目立たない部分で重要な役割をしていることを称賛する意味合いもあるようです。
☆今日は何の日?!
❋大阪住吉大社御田植神事
↑最近、投げることを覚えてしまったので😸
投げます😅
野球の話で申し訳ないのですが🙇
野球部で選手を除いて縁の下の力持ちと言えば、マネージャー。
高校は約15年前に御茶ノ水から郊外へ移転すると共に共学になり、今は女子マネが何人かいます。
しっかりしてます、女子生徒😅
僕らの時は、専属でマネージャーになるほど部員も多くなかったことも理由のひとつにありますが、なので控えの選手がマネージャー的役割を担っていました。
僕は、現役時代は控えという控えの経験がなく、怪我を除いて初めて先発で出られなかったのが草野球でプレーした時。
多い時は3チームを掛け持ちで、1日2試合という時もありましたが、その時に肩も膝もイカれました😔
そんなこともあり、初めて年下の人間が先発で出ることになり、僕はベンチスタートでゲームに出る事も少なくなりました。
その後、数回試合に出てから、言えば僕の中での野球人生は終わりました。
兄も一緒にやっていましたが、監督は母校で甲子園に行った人で、チーム構成は友人の元プロ野球選手に、社会人上がり、他、大学高校でプレーしていた人、うち甲子園出場組も3人。
言えば野球では名の通った学校の元プレーヤーばかりの混成チーム。
代わりはいるんです。
ただ、草野球とはいえ、えらく悔しかった思いをしたことは、今も記憶として残っています。
僕が現役上がってから、こんなことを感じたのだから、当時の中高生が「試合に出たい」という中でのレギュラー外といった位置を受け入れるのには、多感なあの頃のこと、並大抵な感情では収まらなかったんだろうなと、ゲームに出る事が出来なくなった時に初めて感じました。
経験してみないとわからないこと。。
今の女子マネの後輩達。
自らの立場に複雑な思いをしてる子も居ると思いますが、そんな事も言わず、ある時は練習後におにぎりを握っていた時代もあったりして。
あの当時15年ほど前は、いっとき7,80人の部員がいたので、ひとり2個としても大変な数のおにぎりを文句も言わず、ほぼ毎日握っていたことになります。
頭の下がる思いってこういう事をいうのだと思いました。
3年生の卒業前に父母、学校関係者も交えて、送別会を毎年やっていますが、いつだったか会長が所用で欠席とのことで、下にいた僕に挨拶を頼むといった話を直接されまして😔
だーかーらー、嫌いなんですって、表立って何かをするというのが😟
大嫌いなんです😢👎👎
けしてうまい、ベシャリ🤭出来るわけでもないし。。
3つの袋を話すわけにもいかないし?😅
あ、いや、その線でいけばよかった?🤔😅
スパイク袋に
ボール袋に
一応、袋としてバットケースで😅
ビックリされるでしょーね🤭
野球には3つの大切な袋があります。
ひとつは…って😅
で!
その挨拶の前に、先輩でもある当時の監督に
「マネージャーのことを話してやってくれ」と言われまして、3つの袋ではなく😅
なわけで、マネージャーのことを1番先に取り上げて挨拶したことを、思い出しました。
大変ですよね、縁の下の力持ちという役割は。
僕がOB会の手伝いをしていた時に、ある選手の父親と仲良くなりまして、僕と同学年の下からA学のOBの息子さん😅後輩になりますが、大学で野球を続けるかどうかという話をしていたので、やれやれ!と勧めました。
ただレギュラーを狙うような風でもなかったので、マネージャーもいいと思うよ、と話したんです。
結局、その通りにマネージャーとして外から大学野球に携わることになったのですが。。
3年からチーフマネジャーとして全てを取り仕切る長になりましたが、六大学のマネージャー会議等々、仕事は相当多岐に渡るんです。
OBの対応に他校との意見調整、キャンプ地でのスケジュール、これに優勝した時には会場に日程の他、声を掛ける人も決めなければならない…その他諸々、とにかく彼らの日常は忙しく
選手の比ではないんですよね。
これは、普通の学生ではなかなか経験できないことで、その時に自然と生まれる人脈含め、色々な身の回りで起こった出来事は、間違いなく彼の宝物になったと思います。
たまに後輩と会うこともありますが、「元気かよ」と声掛けた時の、彼の表情がすごくいい👍👍😄
高校の時よりずっといいように思いました。
縁の下の力持ちそのものの彼の4年間。
「目立たない部分で重要な役割をしていることを称賛する意味合いもあるようです」
この解説もそのまんまですね。
話戻して😅
草野球では、↑先に上げたチーム構成で、某区の1部、6チームの総当たりで優勝を争う大会に出ていました。
この中の2チームは、都大会で優勝を争っていた会社単位のクラブチームで、全国大会でも優勝している。
残り3チームも、うちと同じようにOBでチームが固められ、ピッチャーの球にしても草野球レベルではない感じ。
その2チームのうち1チームが、うちの監督の絡みで、お疲れ生です先輩の大学同期レギュラー全員が揃うチームと練習試合をしたんですよね、河川敷で😅
当時、東京六大学野球では、明治と法政の2チームが優勝を争っていた時代。
法政には、西田、木戸、小早川、銚子、田中、秦…
後にプロ野球に進んでからも活躍した選手ばかりが在籍していた時代。
明大も甲子園出場組は多かったのですが、甲子園の選抜大会で選手宣誓をした平田勝男さんが、とにかく1年から上手くて、僕らは隣の高校の合宿所から入学したばかりの先輩が、レギュラー組に混じって練習する姿を見ていましたが、なんでも取る😅
取る取る取る!
まず、エラーをしないそんな感じ。
僕等の監督が、大学に入った時点で
「あ、ありゃ守備だけでもプロで食っていけるな」と言っていた通りのことで。
この時のキャッチャーもいい選手が多くいて、その中のひとりが、東洋大姫路の安井さん。
※安井浩ニさん。こんな方↓
「決勝戦のサヨナラ本塁打」――。
長い夏の甲子園大会の歴史において今も唯一無二の存在だが、安井浩二は「他に誰か出てきてくれないかなぁ」と笑った。1977年の決勝戦。東洋大姫路と東邦の一戦は、1―1のまま延長戦に突入した。膠着(こうちゃく)状態にあった投手戦に、決着をつけたのが安井だった。延長10回2死一、二塁から「バンビ」の愛称で大会の注目選手となった1年生右腕・坂本佳一の直球を右翼ラッキーゾーンまで運んだ。大会史上初の決勝戦でのサヨナラ本塁打。東洋大姫路に深紅の大優勝旗をもたらした一撃は、今も安井しか成し得ていない偉業だ。
な人です。
この人が高校の練習に参加してくれた時が1度だけあり、レギュラーバッティング、レギバチで打席に立ったんです。
キャッチャーについていたのが、よく出てくるこの人→🙋 🤭
パッコーンと右中間にライナーで飛んでいった打球に、あ〜あ〜あ〜🤦みたいな😅
すっごく、リストが強い人と思いました。
怪我があった?かどうかわかりませんが、あんな選手でもレギュラーになれない大学野球のレベルなんですよね。
ちなみに平田さんが在学中に明大はリーグ戦で4回優勝し、全日本大学野球選手権大会で3回、明治神宮野球大会でも1979年に優勝してます。
4年の時の大学選手権決勝の相手は近畿大学。
あの応援団に、こぇー😱と思ったあのゲームです😅
で、その草野球でのゲーム。
これ、すっごいな😯と思ったプレーがあったんですよね。
当時二遊間、セカンドは母校2つ上のキャプテン。現役時は僕の1個前のキャッチャー。
書いたように↑同期のキャッチャー、4,5人いましたが、全て高校時代から実力も伴った高校野球界では有名だった人ばかり。
それもあってか、先輩はコンバートされたんですよね。勿論いいものを持っていたからだと思いますが。
で、4年時に平田さんと二遊間を組むことになり、六大学野球リーグ戦の春、秋にレギュラーで出ていました。
この二遊間を草野球の、それも河川敷で見た人は、そんなに居ないというか、居るわけがない😅
硬球ではなく軟球を使ったゲームでした。
感覚的にだいぶ違うものがありますが、会社単位のチームがワンアウト満塁というチャンスで、エンドランを掛けたんですよね。
なかなか点の入らない膠着したゲームで、その時も双方無得点で、1点入れば勝てるという作戦のもとのサインだったと思いますが。。
あ、走った😯
とランナーを見ていたら、バッターが打ちました、エンドランだったので。
その打球がセカンドの先輩のところに飛んだのですが、これは1点入ったなぁなんて思っていたら、そこからが速いのなんのって、セカンドの先輩から平田さんにボールが渡り、パッパッと転送されゲッツー😱😱😱😱😱😱😱😱😱😱
驚き10個🤭
あんなプレーをまして、弾むボールの軟球で決めたことに鳥肌が立ちました😱
今まで見てきた中で1番のプレー👍
🙇
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