いきなりだが、これまでの人生の、負の経験の積み重ねには何の意味があったのか?
を考える。
30歳台は「今にみていろ」と心の中でメラメラと炎を燃やしながら、パチンコをうち、会社帰りに毎晩飲みに行った。
40歳台も後半になりようやく思っているだけでは何も起こらない、という事に気付いてある日スイッチが入った、、まるで神託でもあったかのように。
「やればできる、やらないだけだ」が座右の銘のような人生の過ごし方に、飽き飽きしたのかもしれない。
兎に角、これでは駄目だ、と思ったのが2011年11月1日、取り寄せていた中小企業診断士講座のパンフレットを手に、本気で資格を取ろうと決めた。
高校受験の妥協、三度の大学受験の失敗以降モラトリアムだとうそぶいて充実感とはほど遠くゆらゆらと流されてきた人生を断ち切るのだと、決意した。
途端に、受験の失敗以降、20年以上も流されてきた自分が今回はできるという理由がないのでは?ましてや若い時にできないものが能力の落ちてきた今更出来るわけがない、という考えが浮かんだ。
しかし節目節目にそうやって諦めてきた事からは何も産まれなかった、というのはこれまで嫌というほど味わってきた。
年齢と経験からある種の開き直りが出来たとも言える。
さて、次はどうやって長続きさせるかが問題だ。長続きしない性格も熟知している。
これも潤沢にある負の経験から学んだ。
スケジュールを綿密に立てて実行する、のとは程遠い時間の過ごし方をしてきたのだ。それこそ今突然できるようになりました、となれば苦労はしない、そんなことが出来るのならばそもそも資格を取る必要もないのだ。
遺伝子が組み変わるほど自分に負荷をかける必要がある、と考えた。
そこで受験勉強開始に併せ、煙草をやめパチンコをやめ定期購読していた4誌の漫画雑誌をやめることにした。
そうする事で勉強の苦しみが逆に紛れる事にもつながるだろう、と考えた。
勉強していて辛くなってきて一服したくなっても煙草は吸えない、吸えないつらさを紛らすために雑誌を手に取ろうにもそれはない、その辛さを忘れる為に勉強に没頭してみよう、となればしめたものである。要するに辛くても何が辛いのか判らない様にしてしまおうという作戦である。
さっそく10本以上残っていたパーラメントの箱に「2011/11/1をもって最後」と書き込んだ。アレン・カーの「禁煙セラピー」で何度か一年以上の禁煙に成功してた経験から、この一箱を吸い終わったら、とか明日から、という禁煙は失敗すると学んでいた。
むしろ吸いかけの煙草が近くにありながら吸わない、というスリリングな状態が長続きの秘訣のように思う。
それが奏効したかどうかは定かでないが、とにもかくにも4年かけて一度は一次試験合格に漕ぎ着けた。副産物として煙草は止められたし、雑誌も止められたし、何より30年近くほぼ依存症、というか今から思えば完璧な依存症だったパチンコ、パチスロを一切やらなくなったのは大きい。
勉強して実力が付いていく感覚も知ることが出来た。秀才と言われる人たちの感覚を垣間見た気がする。
本筋から論旨がずれてしまった気もするが、今は負の経験も含めて自分なのだ、と自覚している。
余談になるが勉強を開始して二カ月後に妻が妊娠した。それまで4年間不妊治療をして、原因は主に自分の方にある、と言われていたのだ。
勉強を開始して総じて身の周りが上手くいっている。