5月24日、立川駅南口にある諏訪神社で恒例の奉納演武があった。

日曜日という事で諏訪神社境内では骨董市が行われていたが、前日の天気予報では雨となっていたので出店は半分ほどと淋しい感じではあったが良い天候に恵まれた。

定刻より少し早めにお祓いを受け、神楽殿にて上段者から順に抜いていった。技は自選技で1人5本である。
まずは先生方からである。流石に見ていて参考になることばかりである。基本となるものを外していない。居合においては、いや少なくとも我々の流派ではこうやったほうが綺麗に見えるからという動きは一切存在しない。動きには全て理由があり、結果として綺麗に見えるという事はあるかもしれないが。
先生方の抜く居合は足さばきが良く安定した体となる。また、ただ正座していても隙が無い。これは先輩方の抜くのを見ても同じである。反して自分を含む後輩にあってはハテナと思うところ大である。礼法の最中に後ろから襲えるなあ、こりゃってえもんだ。これも修行の身と思ってご容赦願いたい。

やがて自分の番となる。数週間前より左足の甲を負傷していて今回は礼法は立礼で、技は全て立ち技とさせていただいた。

一本目は「虎乱刀」。足捌きが甘かった。抜き付けももう少し序破急を心がけたい。斬り下ろし、残心はまあまあ。

二本目は「連達」。柄当ては良し。捻転して後ろを突く時にもう少し腰の回転力を活かしたかった。向き直っての斬り下ろしはかぶりをもう少し大きくすべきだった。

三本目は「五方斬」。神楽殿の前後長が自分には短く初動で右足を引いて充分半身になる事が出来なかった。こめかみ、袈裟、胴への斬りつけはまあまあだがまだ練習の余地あり。水平斬りから真っ向斬りはイマイチだ。

四本目は「放打」。これは納刀が技のテンポを左右する。日頃の稽古の深さがモロに出る技だ。抜き付けは早いが納刀にもたつきがあると壊れたプレス機のようなリズムになってしまう。足捌きはまあまあ。斬りつけと納刀にまだまだ研究の余地がある。

五本目は「人中」だ。全般に狭い場所を意識したやり方はまあまあ。抜刀からの斬り下ろしをもう少し早くしたい。納刀もモタついた。こういうシンプルな技が一番ボロを出し易い。高段者でもこういう奥伝の技になると引き手を利かすのを忘れているのを目にするので戒めにしたい。

以降後輩達の演武となる。やはり日頃の稽古の量が如実に技前に表れていた。言い換えれば居合にどれだけのめり込んでいるかがわかる。面倒な事から逃げないというのが要点かと思う。

考えてみれば居合の技術そのものを現代社会で使う事は出来ない。言い尽くされた言葉ではあるが居合修行の目的が精神修養の目的以外に何があるだろうか。
居合の修行はイマジネーションと胆力を養う事じゃないかと思う。これはクルマの両輪でどちらか欠けても成立しない。イマジネーションは技の本質を捉える力。胆力は技の本質を積極的に捉えようと思う力。これが無いと予定調和の踊りのごとくになってしまう。
このふたつは日常でも使える力ではないだろうか。

自分はあるときから昇段審査を辞退している。同じく昇段審査を辞退している古老の先輩の後姿をみて「剣道日本」に掲載された檀崎先生の最後の言葉を思い出す。
「正直、居合の将来に不安を感じる。みんな段位や称号が好きなんだ。修行の途中にあるものがここに飛びついたら一生本当を知る事は出来ない…」確かこんなこんな言葉じゃなかっただろうか。
我々の修行はまだ始まったばかり、まだ基礎工事の段階だと思っている。立派な建物を建てるにはそれ相応の基礎工事は必要だ。
偉大なる先達が命をかけて練ってきた技、茶化すような真似はしたく無い。わずか10年やそこらでなんとかなるものでは無いのは明らかで、それだけに奥が深い。しゃぶり甲斐があるというものだ。

さて、今日も偉大なる先達の声に耳をかたむけてみようと思う。