日本で生まれ育ったほとんどの人にとって,神様というのは日常のいろんなところにいる,という認識なのではないだろうか。トイレの神様,学問の神様,果ては神プレイまで,日本人の日常には神様がいたるところに隠れている。
古代のエジプトやメソポタミア,ギリシャ神話の神様や,ヒンドゥー教や古代のバラモン教,古事記の神話の世界を見ても,圧倒的に多神教が多い。神話の中の神様は比較的生き生きとした感情をもち,人間社会と時には強調し,時には天罰を下したり祟ったりしする存在だ。
一方,中世以降,一神教が極端に力をつけてきた。キリスト教とイスラム教+ユダヤ教である。いずれも同じ一人の神を信仰しながら,世界中に多大なる影響力を及ぼしてきた。ここでの神は唯一絶対であるから,人間くささを感じさせることはない。唯一絶対であるゆえに,間違いを犯すことはないし,そもそも神が間違うという概念自体存在しない。人間社会で起こることに対して,宗教的な理屈をつけて考えていくと,一神教の神は,理論的にずるいのだ。「神が●●といった」で話は終わってしまう。通常の批判的思考(クリティカルシンキング)でいうところの,なぜ?だから何?という問いかけがそこでストップしてしまう。
物心ついたときからキリスト教系のカルト教団で育った私には信教の自由はなかった。唯一絶対神の存在に怯え,私は宗教組織の中で模範的であることを常に求められたし,それなりに期待に応えていた。ただ,知的好奇心が人一倍強かった私は,カルト教団の教義,いやそもそも神の存在についても基本的にはずっと懐疑的だった。ちなみに,仏教的な思想が好きなのは,あまりそういう神秘的な思想が出てこないこと,神道的なアミニズムが好きなのは,そもそも生活を規定してこないし,神格化された存在を証明する必要もないことだ。
私は,結局理系の大学に進学した。カルト教団への表向きは,「神が創り給うたこの世界や宇宙の理をより理解するため」であったが,神がいるかどうかなどどうでもよく,美しい数学と理論的な学問の中でとても楽しい4年間を過ごしたのだった。もちろん,大学時代にはいわゆるリベラルアーツもよく学んだ。インド哲学,日本と世界の歴史,法律,文化,教育などについてだ。学べば学ぶほど,日本に住んでいる多くの人が,一見無神論のようでいて,その実は非常に信心深いことが実感として分かった。研究室には実験の成功を祈る神棚があったりするし,心霊スポットやパワースポットに喜んで出かけていく。ちなみに,心霊現象を起こす怨霊も日本人にとっては神と似た種類の現象として受け止められている。
私は,こうした習俗を好ましいものと思ったし,日本の風土に合った精神世界だと受け止めた。結果的に,カルト教団を脱会し,一見無神論的な周囲に交じって生きていくことを選択したのだった。今となっては,むしろ良く神社に参る方だと思うし,古寺を訪れるのがとても好きだ。私が神様の存在を信じているかどうかなんて,そんなのはどうでもよいことだ。