色即是空。

 

唯識論は大学の印哲で少しかじっただけだけど,すごく感銘を受けたことを20年たった今でも鮮明に覚えている。必ずしも正確に理解できているかどうかはわからないけど,この考えでは人は五感+意識の六識に加えて,末那識と阿頼耶識を備えている。確かに,私は私が知覚したことのみで判断をしているし,知覚できないことについて判断をすることはできない。しかも,常に何かに執着をしていて,その執着は寝ても覚めても自分を突き動かす。でも,自分の認識を遮断してしまえば,そこにそれはないことになる。もうそれにとらわれる必要はないのだ。というよりも,そもそも,そこにそれがあるということ自体にさして意味はないのだ。なにせ,それは空,いわゆる無なのだから。

 

空である以上,そこに執着すること自体は何の意味もない。そして執着がなくなった先にあるのは本当に自由な世界=悟りなのだ。でも,結局わたしたちはそこにそれがあると認識し,それを手に入れたくなったり,それを極度に恐れたり,執着してしまうのだ。それはそれで,とても人間らしいことだから,その境地に達した人に導いてほしいと思うのではないか。

 

人は,宇宙のすべてにまで思いをはせることができるのに,目の前の人と対峙するのがこんなにも難しいことがある。壮大な哲学を学ぶことができるのに,なぜこんなにも日々の判断に思い悩むのか。

 

この世界を愛すれば愛するほど,その愛が執着を誘ってくるのだ。

 

色即是空,これは般若波羅蜜多心経(般若心経)の一節でもある。この般若心経として今唱えられている経典は,玄奘(西遊記に出てくる三蔵法師)によって,インドから中国に伝えられサンスクリット語から中国語に翻訳され,さらに最澄や空海らが日本に伝えたとされる(日本伝来時期はこれよりも前からあったが,経典の解説をきちんと行ったのは最澄や空海)。経典を求めて,命がけの旅をする1500年前の人々も,今と変わらぬ営みの中で,悩み,考え,考え抜き,その中からこうした哲学に至ったと思うと果てのないロマンを感じる。

 

いつか,すべての執着から解き放たれて,空の中にたゆたうときが訪れることを夢見て。