カンニング 自殺 | デブリマンXの行方

デブリマンXの行方

いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

 

 

 

今朝目にしたニュース。

ニュース自体の内容は上記に貼って割愛するが、この事件は1つの節目ではないかと思う。

具体的には、自殺のリスクがあったとしても、子どもの行為をどこまで許すのか?である。

この子が高校生の間に自殺しなかった未来はもう知るよしもないが、もし生きていたとしても社会人になってから……っという可能性は十分あったと思う。少なくとも、それを全く考えない子よりはリスクがあっただろう。そのリスクの原因がどこにあったのかは分からないが、まあ十中八九家族を含めた人間関係だろう。

 

わたし自身がそうなのだが、どうにも責任を取る能力が根本的に弱い気がする。

自分自身のやったことにすら責任が取れないというか、精神的に耐えられない節があるのである。おそらく、それが自分の許容量を完全に超えたときに自殺という選択肢が現実になるのだと思う。

 

とは言え、社会にそれを理解しろ!というのは現実的ではない。

常に「言うこと聞かないとここから飛び降りるぞ!」状態では、最初はそれで良いかもしれないが、最後は突き落とされるか蹴り落とされるかするだろう。

現実として競争社会もしくは村社会なのだから、そこに属せないのであればどうしたって切り落とされてしまう。そのための福祉かもしれないが、それも今は限界に近いだろう。

 

この事件の根本的な原因は競争社会だろうか?

子どもの頃から常に競争させられ、ある程度の歳で人生に疲れるというのが現代の流れだろうと思う。しかし、競争する以外の人生を選べた人間は非常に少ない。モデルケースが存在しない以上、マジョリティの流れに沿っていくのは人の常である。

命を大切にとは言うが、生きながらに死んでいる人に対しては、何と声を掛けるのだろうか?