『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』(新潮新書・岩竹美加子 著)を読み始めた。
フィンランドはPISA(十五歳児童の学習到達速度国際比較)の他分野で1位。近年は幸福度も世界一位(本書は2019年の出版だが、2023年の現在でも世界一位)。それを実現したのはフィンランドの教育方法にある、という内容である。
フィンランドの教育や福祉については解説する内容が多すぎるので省くが、保育園レベルの話で大きいのは行事が少ないということだろう。入園式・卒園式もないらしい。まあ、子どもにとってはいらないから当然である。行事は大人が子どもの成長を喜び楽しむものであるというのが現実だが、子どものためにやってあげてると思ってるから始末が悪い。人情味はないかもしれないが、それが現実。人情は幻想であり、ただの思い込みである。
先日、わたしの勤める保育園でも行事を減らすという決定があった。が、今日の朝礼で「やりたい行事があればクラス毎にまとめて下さい」という旨の話があったらしい。決定とはなんだったのか、と言いたいところであるが、断捨離がなかなかできないのが人情の弱いところ。まあ、園の保育士としては「子どものために行事をやってあげたい!」のは美徳であるから、その建前を無視できないのだろうと思う。実際、子どものための行事を学生の文化祭のように楽しめる人は比較的多いだろうと思う。だったらボランティアでやってればいいんじゃないか?
と単純なわたしは思ったが、どうせボランティアに参加しないことで人間関係に亀裂が入るのだろうと思った。そう考えると福祉というのは本当にドロドロのエゴイズムが正義を振りかざしている気がする。福祉の概念そのものは大切であるが、やはり本質を無視してはいけないだろう。まあ、無視してる人には関係ないけども。
保育園でやることを減らすと、必ず反対意見を言うのが人情に篤いパート保育士である。口癖は「ハサミや絵の具を家でやっている家庭ばかりではない。そういう子たちが小学校で初めてそういうものに出会った時、出来ない子と思われるのはかわいそう」というものだ。しかし、ハサミや絵の具レベルのものは簡単だから就学前でも教えられるわけで、就学後に終わってもよほど才能やら環境やらに差が無い限りは問題ないはずである。それが問題になる子はおそらく支援学校に行くはずだ。また、「行事をなくすのはかわいそう。親だって子どもの行事を減らされるのは嫌だと思う」と保護者代表みたいな意見を言うが、保育士やってる人が普通の保護者の視点に立つのは無理でしょうとわたしは思う。その人たちは現代の保護者の気持ちが分かっていない。現代の保護者は「お客様として参加するならいいけど、お手伝いするなら嫌」「行事に参加するのはそもそもめんどい」が多数派であるが、地域との繋がりが深くなりやすいベテラン保育士は、その視点にはどうしても立てない(自分が地域のイベントに積極的に参加するため)。保育園で勝手にやってくれるから家でトイレトレーニングすらしない家庭が少なくないにも関わらず、「親だからこのくらいはやって当然」という先入観を外せない。自分の若い頃のことから離れることができず、当時からすれば堕落しているとしか思えない現代人を正面から直視していない。新人のわたしからすると、ベテランの現場保育士は、今の子どもたちを少しでも昔の子どもたちに近づけようと頑張っているようにしか見えない。過去に理想があり、それを求め続ける姿はまさに凋落していく日本人そのもののように感じる。