自分の社会的ポジションを知る 天職 悪いところ探しの名人 | デブリマンXの行方

デブリマンXの行方

いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

 

先月診断されたわたしのIQ116。

心理士の先生が言うには、これは大抵のことならこなすことのできる能力値らしい。

 

はっきり言って、わたしは自分がそんなにできる人間だとは思えない。要領の悪さと勘の悪さについては人よりも優れていると感じる。

ただ、仮にわたしの能力が人として平均より上であるならば、わたしより能力の低い人はどうなっているのか? まさか全員が全員引きこもりになっているわけではないだろう。

 

IQの数値が必ずしも仕事の能力に良い影響を与えるとは限らないが、もしもIQの高い人間がそうでない人間に負けるとすれば、それは経験の差ではないだろうか?

例えば、IQに差がある人2人が、IQの要求される業務に取り組んだ場合、IQの高い方が優位に立つだろう。しかし、IQが低い方が優位に立つ場合もある。それは、IQの低い方がその業務に熟達していた場合だ。多くの仕事は、慣れてしまえば頭を使わなくてもできるようになる。わたしも保育士を初めて半年以上が経ち、未だに不安だらけの毎日だが、基本的な業務はなんとかこなせている。つまり、仕事は続けられさえすれば相性の悪い職場への異動・昇進が無い限りはIQに関係なく能力が身についていく。

我慢して会社にしがみついた年功序列の時代にもそれはあり、その流れは多くの場合で変わっていないはずである。

 

問題は、その能力を身につけるために必要な期間と経験である。

わたしは工場で生産ラインリーダーを担当したことがあるが、その業務を新人に引き継ぐなら少なくとも2年、できれば3年は欲しいと思う。その生産ラインの作業を憶えるのに1年。生産ラインを経験しつつラインリーダー業務を憶えるのに1年。といった具合だ。+1年あればイレギュラー対応の質なども上げられる。

保育士の仕事は今の環境であれば5年程度で熟達できるだろうと思う。ただ、職人芸であるため、ある程度の水準まで行くと才能の壁・性別の壁にぶち当たると感じる。また、続けるには保育士に対する強い憧れが必須だが、わたしに関して言えばそんなものはない。

いずれにせよ、本当の意味で仕事を身につけるには年単位で修行するのが確実だ。それこそIQが高ければ高いほどそのスパンは短くなるだろうとは思うが、それでも3ヶ月くらいは必要になるだろうと思う。

若い内は色々実際に経験して丸く収まることもあるだろうが、わたしの30歳という年齢を考えるともう年単位で修行できる期間は長くない。保育士の仕事をみるに、IQが高かろうとできない仕事はできない。ただ、慎重かつ迅速に次の職場を決める必要があるとは思う。

 

天職という言葉がある。

ネットで検索してみるとどうやらスピリチュアル系の考え方になるらしいが、仕事が好きで好きでたまらないというのは幸福度も高いしパフォーマンスも高いだろう。仕事嫌いの人にその価値観を押しつけない限りは問題も起こらないのではないかと思う。

わたしの天職は何かと考えてみると、これが全然思いつかない。

やれと言われたことはやる。そこに至るまでの手段と期限がなければ大抵のことはできると思っている。ただ、クオリティは伴わないし、自分のやりたいことも特にないのが現実だ。やりたくないことはやらなくていい仕事があるならそれは天職かもしれないが、そんなこと言ったら無職が天職になりかねない。

引きこもりというのは一種の才能である。他者に精神的に傷つけられる恐怖心が常になければ続けることはできない。いずれは思考放棄に至って無気力・無関心になるのだろうが、わたしにとってはそちらの方が他者に傷つけられるよりも遙かに有害だ。生きながらにして死んでいる状態というのは本当に辛い。理性が耐えられなければ間違いなく自殺を選ぶだろうと思う。そして、理性が耐えているということは、希望を失ってはいないということだ。このブログでこの世の終わりみたいな愚痴を吐きまくっていても、人生を諦めきってはいないということである。

 

昨日、ブックオフで『学びを結果に変えるアウトプット大全』(樺沢紫苑 著.sanctuary books)という本が目に付いたので買って読んでいる。

そのP45に『普段から悪口を言っていると「悪いところ探しの名人となる」』とあったが、悪いところ探しの名人?……俺じゃん!!となって、久々に印象に残った。

はっきり言って、わたしは様々なものの悪いところを見つけることに関してはかなり根拠の無い自信を持っている。なんでそんな能力が身についたのかと言われると、『犯罪心理学者が教える子どもを呪う言葉・救う言葉』(出口保行 著.SB新書)で解説されているような負の英才教育を受けたからだろうと思っている。中学2年生の頃、職場体験に行く前に書いた履歴書もどきの『得意なこと』に「相手の人を怒らせること」と書いたのは我ながら印象に残っている。ようは、相手の弱点が目に付く性格なのだ。相手の長所を評価することもないわけではないが、その多くは相手の弱点が見当たらない場合である。これは、わたしのものの考え方が、『まず悪いところを直して、そのあとは無理なく伸ばす』というようになっているからだと思っている。完璧主義の性分なのか、弱点や欠点が何十倍にも増幅されてしまう。ただ、その分わたしの周りには人格者しか残っていないような気もする。その点は良いのかもしれない。

 

『学びを結果に変えるアウトプット大全』によれば、ネガティブ思考は百害あって一利なしと言わんばかりである。その通り!

しかし、ネガティブの沼にハマった人間はそんな言葉だけで抜け出せるほど甘くはない。尋常では無いネガティブ思考は、ポジティブな思い込みで挑戦して失敗することを何よりも恐れる。ある意味本気を出さないことで自尊心を保っているともとれるかもしれない。そこまでネガティブな沼にハマった人間には、ネガティブ思考を無視することはできないはずだ。じゃあ、どうするかと言えば、ネガティブの沼の底まで潜ってその深さを知るしかないとわたしは思う。ポジティブ思考の有益さは知識としては分かっているのだ。ただ、ネガティブ思考を無視して背後から刺されることも辛い。なので、ネガティブ思考の無益さを本当の意味で理解する必要がある。ネガティブ思考の長所としては、自然と批判的思考になることと、ネガティブ思考に共感・共有できるというものがあると考えられる。「それって良いこと?」と思われるかもしれないが、ネガティブ思考を無視するのは弱者切り捨ての自己責任社会を肯定することに他ならない。社会が事実上の上級国民と下級国民で分断され、わたし自身が下級に属しているというのに、その仲間を無視することがどうしてできるだろうか? 断言してもいいが、これから下級国民による日本社会の脚の引っ張りが始まることは確実である。弱者の論理が分からなければ、それに対処することは不可能だ。わたしは平和に暮らせればそれ以上のことは望んでいない。『まず悪いところを直して、そのあとは無理なく伸ばす』ことこそ、平和への道であることを信じている。