相互監視による生産性低下 お互い様 同調圧力 ピアプレッシャー 人間関係 大人は恐い | デブリマンXの行方

デブリマンXの行方

いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

2日前、保育園での勤務時間中に38.7℃という高熱が出た。

すぐさま帰るように促され、コロナの影響で発熱外来の扱いが大幅に変更されていたことに戸惑い(まあ、当然と言えば当然の対応だなと思い)つつ病院へ受診。

結果はインフルエンザ。予防接種は受けていたものの、インフルエンザ自体にも種類があるし、病気というものはかかる時はかかるのでそれは仕方が無い。

 

今回のインフルエンザでは、発熱が最大39.4℃まで上がったが、39.0℃を超えることなんて以前の記憶にはない。記憶にある限りではコロナワクチン1回目の副反応が初めてだったが、もしかしてあれはウィルスに対して体温を上げて駆除できるようにする薬だったのかと今では思っている(巷で流行っている陰謀論は嫌いなので読んでません)。

 

体調が悪いとすぐに帰らせてくれるのは、保育園の数少ないメリットではある。

「そんなの当たり前では?」と思う人もいるかもしれないが、周りに気を遣ったり、有給を消費したくないから我慢する人がほとんどだと思うし、前に勤めていた会社ではインフルエンザを公言しながら普通に出社している人も居た。常識ってなんだ?

 

 

以上の話から先日の記事の続きに入る。

 

 

発熱して帰る際に、同僚の先生から「お互い様だからね~」と言われた。この業界では慣用句であるが、ここ最近この手の記事を書きつつこの言葉を聞いたことで、わたし自身の中にお互い様精神が全く無いことにようやく気がついた。

 

お互い様精神がないとはいえ、相手のことを利用してやろうとか、恩義を感じないとかそういうわけではない。簡単に言えば、「お互い様」という言葉そのものが恩着せがましくて嫌いなのだ。お互い様というのは事実ではある。保育園ではどの職員がいつ休んでもおかしくはないし、皆勤賞を取れる人は一握りだろうと思う(ちなみに、有給消化率100%以上の職員もいる。わたし自身も消化率95%程度。内の90%は感染症である)。

 

無論、今回はこちらが迷惑をかける側なので、相手の「お互い様だからね~」には「気にしなくていいよ」のニュアンスも含まれているだろう。また、目上の人から目下の人(わたし)を対等に扱っている表現であるので、この場面で使われることは問題が無い。わたしが育ちが良くて世間知らずで純粋な新卒であれば「この職場はわたしを受け入れてくれている!わたしももっと頑張らないと!」という保育士の鏡のような発想に至ったかもしれない。だが、そうはならなかった。

 

理由はいくつかある。

まず、わたし自身に自信がないこと。「お互い様」というのは対等な立場で成立する表現であり、横社会である女性社会では何もおかしくない表現ではある。しかし、わたし自身が自分をとにかく相手より下だと思い込もうとしているので、「お互い様」にはなれないのである。今回のような急な休みは、わたし自身も他の職員のフォローに回ったことがあり、その意味で対等でお互い様であっても、「お互い様」になれないのである。

 

2つ目の理由は、「大人は恐い」が無いことである。

大人が恐いというのは、いわゆる昭和的な価値観で、最近の例え分かりやすいのは宝塚歌劇団のアレである。

この場合の大人というのは、「精神的に成熟した人」ではなく単純に「年上」である。昭和は年功序列が当たり前の価値観なので、年上から年下に対して愛の鞭という名の理不尽が美徳とされた歴史がある。勘違いしないでもらいたいのは、それをやっていた人間がクズなのではなくて、環境がそうさせたということ。人間は弱いのである。しかし、その慣習ももはや愛がなくなって鞭だけになってるのだとしたらただの暴行。現代では犯罪行為なのでそのくらいは当事者でなんとかして欲しいと第三者は思ってしまう。だが、人間は悲しいほどに弱いのである。

話が逸れてしまったが、上述の通り昭和の人は親や教師や先輩にボッコボコにされて育っているため、年上に対する恐怖心が根付いている。対して、平成以降になってくると、その慣習も減っていき、「大人は恐い」という発想すらなくなっている。

社会では実力がものを言うため、社会人歴の長さによる年功序列が残ってはいる。しかし、ITの活用という点ではデジタルネイティブの若者に一日の長があり、なんでもデジタル化しようという昨今では年上だからといって優位に立てるわけではない(それが分かっているから日本のデジタル発展を遅らせたのだとしたら、その点については昔の人の賢さに脱帽する)。

このように、実力で上下関係ができそうな時代にはなってきているものの、実際はお互いのやってることはよくわからないので、どちらが上か下かを決めることはできない。だとすれば、不要な地雷を踏まないためにも、全ての人に対して礼を尽くす(あるいはへりくだる)のは、現代では当然の処世術と言える。この場合、あえて自分の立場を相手よりも低めるのだから、「お互い様」にはならない。迷惑を掛けられた分は、心の内で貸しとするか、過ぎたこととして気にしないかのどちらかである。

 

話がややこしくなって来ているので、「お互い様」という言葉だけで整理する。まず、「お互い様」は目上の人には使わない。なので、「お互い様 = 対等以下」である。しかし、上下関係の曖昧な現代では相手を持ち上げた方が無難であるので「お互い様」を使えるのは明確に立場が上の人間だけである。つまり、実際に「お互い様」を使えるのは「本当に対等だと思ってる人」・「自分の方が立場が上だと思ってる人」・「ただの慣用句なので何とも思ってない人」の3通りだとわたしは思っている。中でも、3番目の慣用句として使われているというのが体感9割以上だとは思う。というか、保育の世界(女性社会?)のやりとりは世間話を除けば「慣用句+それに合わせた表情」さえできれば無難に渡っていけるのではないだろうか?

わたしは感情が一枚岩なので無理だが。

 

考察がネガティブ思考に引きずられた感じが否めないが、「お互い様」そのものに関する自分の感じ方は概ねこんな感じだと思う。その「お互い様」は、おそらく同調圧力に繋がり、相互監視、仕事のやりづらさ、果ては不適切保育にまで繋がっていると思うので、引き続き考えを整理していきたい。