短大の先生方との話 ─ 言葉に詰まる編 ─ | デブリマンXの行方

デブリマンXの行方

いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

本日、自分の通っていた短大の保育科の先生方とお話しする機会があった。

 

自分の近況(仕事を辞める・発達障害の検査をしている)について話をしたが、「なぜ、保育士を辞めるのか?」と訊ねられ、「自分に向いてないからです」と答えると、「具体的にどこが?」と訊ねられ、言葉に詰まった。

辞めたい理由はこのブログに山のように書いてあるが、すぐに言葉にできなかった。頭の中で相手に伝えるべき情報を整理できないのだ。

このときわたしは、それこそがわたしのコミュニケーションの障害そのものではないかと感じた。

 

なぜ情報を整理できないのかと言えば、おそらく情報量が多い上に、自分の中で細かく分類されているからだと感じる。そこに相手に伝えて良いのか悪いのか、ただの悪口ではないか?、などの無数のフィルターが加わり、その上で整理がつかないと話ができないのではないかと思う。

 

短大の先生が言うには、「元々君のコミュニケーションには違和感があった」とのこと。これ自体はわたしにとっては全く驚くことではない。はっきり言って、多少知識があれば、わたしがどうズレているのかは何となく伝わるはずである。わたしも根拠もなく発達障害を疑っているわけではない。問題は、外見や振る舞いでわたしが立派に見えてしまう人もいるらしいこと。おそらく、わたしが落ち着いていて、一見して大人びて見えているのだろうと思う。しかし、いじめっ子の眼鏡を掛ければ、わたしが人として弱者であることは一目で分かるのではないかと感じる。本能で弱者と見抜かれる感覚は、見抜かれた当事者にしか伝わらないと思うが。