不適切保育 なぜ起こる? | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

今日はわたしの勤める保育園でまあ「アウトかな~?」という保育士の子どもへの関わりがあった。

絵本の時間に走り回っていた子たち(2歳児)を窓から閉め出してしまったのである。

わたしは絵本担当だったため、子どもたちの詳細な様子はわからなかったが、閉められた窓の外から子どもたちの泣き声が聞こえた。外部の人から見られたらと思うとヒヤヒヤするが、保育園で子どもが泣いているなんて当たり前のことなので、声だけでは気がつかないだろう。

 

閉め出した保育士が普段からそんなことをしているのかと言えばそんなことはない。叱る声は大きめで専門家からするとそれも不適切保育かもしれないが、それも子どものためを思ってこそである。まあ、それはそれとしても人間のする仕事なので、子どもたちのことを思ってすることに保育士のストレスが乗ってしまうこともままある。今日は特に虫の居所が悪かったのではないだろうか。

 

わたしの園に限った話ではないが、保育業界は不適切保育という言葉に戦々恐々である。なぜなら、どこまでがセーフでどこまでがアウトなのか、線引きが曖昧だからである。いやしくも去年まで短期大学部に通って保育を学んだわたしには最新のセーフの知識があり、それ故に苦しんだ時期もある。しかし、現場に染まっている保育士にははっきり言ってセーフかアウトかビクビクしながら保育する余裕は無い。なぜなら、職場内でも保育思想に差があるため、自分の保育を貫かなければ、自信を持って保育をすることができないからだ。そうでないと、他の保育士の考え方に流され、自分を見失ってしまう。現場の保育は職人技であり、職人としてのプライドを持っている。それくらいの心の強さがなければ、保育士を続けることはできないだろうとわたしは思う。しかし、そもそも保育思想に差があることそのものが問題なのかもしれないが。

 

わたしの担当クラス(2歳児)ではわたしを含めて5人の保育士で24人の子どもをみている。保育園の場合、児童福祉法だと保育士1人につき6人みれることになっているため、人数的には手厚い。しかし、わたしのクラスの子は個性が強烈な子が多いため、保育士に余裕があるかと言えばそんなことはない。来年は多くても保育士3人になるわけだが、幼児で個性が強烈な子は1人で保育士を独占することもままあるため、その感覚で言えば来年は今よりも保育士を増やした方が良いくらいだと思う。はっきり言って、児童福祉法は幼児クラスの発達や知的の子を軽視している。まあ、自由保育がしっかりできている園なら、その子たちも落ち着いて過ごすことができるのかもしれないが……。

 

わたしの担当クラスの保育方針は、明言はされていないがおそらく「自立」である。

1人でも生きていけるように、人並みのことは身につけさせたいというねがいが保育士たちにはある。その中には集団行動も含まれており、先生の指示をよく聞いて従うことも求めている。集団行動アレルギーのわたしにとっては実にストレスフルな保育だ。

わたしが学生時代に学んだ保育では、子どもたちを中心に活動を広げることが求められていたが、わたしのクラスでは小学校まで見据えた動きをすでにしている。とにかく早めに経験させてあげたいという親心だが、何事にもその子の適齢期というものがある。それに、多少のフライングはたとえ小学校のであっても大したリードにはならないだろう。人生単位で考えたらもっとどうでも良いはずだ。

 

今回の締め出しのケースでは、「集団行動ができていない」「先生の話を聞いていない」の2点から子どもたちに罰が与えられた。わたしが習った発達心理学では、しつけが有効になるのは物事を順序立てて考えられるようになる4歳児くらいからなので、罰を与えて説教をするというのは子どもにしてみたら「なぜか知らないが怒られて恐かった」という心の怯えを育むだけのものだとわたしは思う。それでも保育士が叱ってしまうのは、所謂愛の鞭である。子どもを愛しているが故に、その子が世間から外れて苦しむのなら鞭で叩いてでも矯正するという、大人のエゴイズムである。