ガンジーと「神」

Mohandas Karamchand Gandhi (1869-1948) 

ヴァイシャ(商人)の生まれーGandhi(香辛料を商う人)

弁護士として、1893年に南アフリカへー差別撤廃のためのサッティヤーグラハ

1910年トルストイ農園設立

1915年インドへ帰国―第一次大戦後からの独立運動(投獄、断食)

1930年塩の行進

1947年インド独立


○思想の根底にあるヒンドゥー教

ヒンドゥー教とは?―サンスクリット語の「スィンドゥ」=インダス河

インダス文明→アーリア人による侵略とヴェーダ聖典+バラモン教→「プロテスト」としての仏教・ジャイナ教の隆盛(BC5世紀ごろ)→混ざりながらバラモン教がヒンドゥー教へと形を変えていく(BC4世紀ごろ)

―ヴェーダやバラモン的な価値観や社会制度の枠組みの中で、民間信仰などの土着の信仰や生活様式が長い時間をかけて溶け込みながら、作られていった「宗教文化的複合体」


サッティヤーグラハー平和的非暴力・不服従・非協力

Satya-真理・真実 agraha-執拗な主張、固執

「ガンジーの抱く『永遠の真実』という思想が、インドの下層社会の人々に信じられている宗教思想、すなわち、行動を重んじ、私心のない献身と奉仕のを重んずるバクチ(Bakti)教義」(「ガンジー自伝」P429蝋山芳郎・解説より)

バクチ(バクティ)とは

・シヴァ神のシャイヴァ派―

シヴァ神を最高神として崇拝する―破壊神、自然、縄文

ヴィシュヌ神のヴァイシュナヴァ派

ブラフマン=ヴィシュヌ神とその化身(アヴァターラ)

を最高神として崇拝する―創造神、人間、弥生

バクティとは最高神への帰依をさす言葉で「信愛」ないし「誠信」と訳される。ウパニシャッド哲学(梵我一如)のブラフマンとアートマンの理解や、ヴェーダの祭祀によらなくとも、熱心な帰依の心をもって、神への献身と自己鍛錬によって、救済(神と合一になる)がもたらされるとする教えである。経典は「バガヴァッド=ギーター」(4世紀ごろ完成)(マハーバーラタの一部)→バクティ・ヨーガ

11世紀にラーマヌジャによって発展

―「神はすべてのものに宿っている」「すべての人間は神と根源を一つにする

―人間はヴィシュヌ神への献身によって、ブラフマン―神の恩寵に預かり、神と人間との差別をなくする

空海の「即身成仏」―道元「ただ座るー結果の放擲」―親鸞「専修念仏」…共通点が見えてくるのではないか。


○『ガンジー自伝』からみるガンジーの宗教観

・「今日わたしは、トゥルシダスの『ラーマヤナ』をすべての信仰文学中の最高の書とみなしている」(ガンジー自伝p52)

・「今日わたしは、それ(バガヴァッド=ギーター)を、真実の知識を得るためのもっともすぐれた書物だとみなしている」(p89)

・「トルストイの『神の国は汝自身のうちにあり』を読んで、私は感動で圧倒された。それは、わたしに永遠の印象を刻み付けた」(P128)

・また、幼いころから父母の影響により、ヒンドゥー教の、シヴァ派やラーマ派、ジャイナ教、イスラム教やゾロアスター教の人々との接点があった。その体験が「すべての信仰に対する寛容さが、私に教え込まれた」(p52)―1910年のトルストイ農場

しかし、「ヒンドゥ教やヒンドゥの神たちに悪口をあびせ」「人に牛肉を食べさせ、アルコールをとらせ、そして自分自身の衣装変えさせる宗教」であった独善的なキリスト教は例外だったとしている(p52-53)


○ガンジーと「神」について

・キリスト教に対して

「どうかぜひ、山上の垂訓においてみなさんに与えられた思想の源泉から深く飲んでください。しかしそのとき、あなたがたは『あら布をまとい、灰をかぶって深く悔い改め』なければならないでしょう。山上の垂訓の教えは〔キリスト教徒の独占物ではなく〕わたしたち一人びとりのためのものだったのです。みなさんは『神と富の両方につかえることはできません』大慈大悲と寛容そのものである神は―」(「ヤング・インディア」1927年12月8日)

・仏教に対して

「彼(仏陀)はこの宇宙を支配する永遠にして不変の道徳的支配が存在することを強調し、再宣言したのでした。仏陀は決然として、法こそは神自身であることを言明したのでした。神の法は永遠にして不変であり、神自身と不可分です。法は神の完全性そのものの不可欠な条件です。ですから、仏陀は神を信じず、ただ道徳的理法の存在のみを信じていたというのは誤解です」(「ヤング・インディア」1927月11月15日)

・真実と神の関係

「わたしにとっては、真実こそ、ほかの無数の原則をそのなかに含んでいる大原則なのである。この真実は、言葉の使い方における誠実さのみならず、考え方における誠実さでもある。さらに私たちの真実に関する相対的な観念であるのみならず、絶対の真実、永遠の原則、すなわち神でもある」(「ガンジー自伝」p17)

・人生の目的

「人生の目的とは、われわれ人間を創造し、われわれの一呼吸一呼吸までがそのものの慈悲と同意によっている大いなるちからに、誠心誠意その創造の仕事に参加することによって仕えることである。すなわちそれは、を意味し、今日いたるところで見かける憎悪ではない」(「ハリジャン」1947年4月6日)

梵我一如(ウパニシャット)→すべてのものは神=ブラフマンと根源を一つにする(ラーマヌジャ)→人間は神=クリシュナ=ブラフマンへの献身、自己鍛錬によって、神の恩寵に預かり、人間は神と合一する(バクティ)→神=大慈大悲と寛容=仏陀の法=真実=愛(ガンジー)

タゴールの言葉―松岡正剛千夜千冊より

「ガンジーは自分自身に完全に誠実に生きた。それゆえにに対しても誠実であり、すべての人々に対しても誠実だった」

平成27年 10月19日(月)

宮本武蔵と五輪書


宮本武蔵(1584年 - 1645年)

信仰の枠に囚われず自由に語り合う集まりであるリベラの場に、
「神仏を尊び、これを頼まず」
と言い切った武蔵の言葉は、信仰というものを考えるに当たり、一方の極として参考になるのではないかとの思いから、今回五輪書を取り上げます。


五輪書の概要
 
構成:地・水・火・風・空 の五巻より成る

地の巻:序論・総論
著者(武蔵)のこれまでの生涯、兵法のあらまし、五輪書の各巻についての内容が書かれている。

水の巻:技術論
身心の在り方や身体操作法(剣さばき、体さばきを等)が詳細に説かれている。

火の巻:戦略論
水の巻で説かれた技術を戦いの場(一対一・多対多の場面含む)で活かす戦略について書かれている。

風の巻:比較論
武蔵の開いた二天一流と他の流派について比較し、二天一流が兵法として道理に適っていることを事細かに述べている。

空の巻:
兵法の本質としての「空」について書かれている。


地之巻 

一 此兵法の書、五卷に仕立つる事。(抜粋)

五つの道をわかち、一巻ひとまきにして、其利をしらしめんがために、
地水火風空として、五巻に書顕すなり。

地之巻におゐては、兵法の道の大躰、我一流の見立、劔術一通りにしては、
まことの道を得がたし。
大きなる所より、ちいさきところをしり、淺きより深きに至る。
直なる道の地形を引ならすに依って、初を地之巻と名付る也。

第二、水之巻。
水を本として、心を水になる也。水は、方圓の器にしたがひ、一てきとなり、
さうかいとなる。
水にへきたんの色あり。清き所をもちゐて、一流の事を此巻に書顕はす也。
劔術一通の理、さだかに見分け、一人の敵に自由に勝つときは、
世界の人に皆勝つ所也。

第三、火之巻。
此巻に戦の事を書記す也。
火は大小となり、けやけき心なるによつて、合戦の事を書く也。
合戦の道、一人と一人との戦も、萬と萬との戦も同じ道也。
心を大なる事になし、心をちいさくなして、よく吟味して見るべし。
大なる所は見へやすし、ちいさき所は見へがたし。

第四、風之巻。
此巻を風之巻と記す事、我一流の事に非ず、世の中の兵法、
其流々の事を書のする所也。
風と云ふにおゐては、昔の風、今の風、其家々の風などゝあれば、世間の兵法、
其流々のしわざを、さだかに書顕はす、是風也。
他の事をよくしらずしては、自らのわきまへ成りがたし。

第五、空之巻。
此巻、空と書顕はす事、空と云出すよりしては、何をか奥と云ひ、
何をか口といはん。
道理を得ては道理を離れ、兵法の道に、おのれと自由有て、おのれと奇特を得、
時にあひては拍子をしり、おのづから打ち、おのづからあたる、是皆空の道也。
おのれと實の道に入る事を、空の巻にして書とゞむるもの也。


地之巻 後書

右、一流の兵法の道、朝な朝な夕な夕な勤めおこなふによって、後書
おのづから廣き心になつて、多分一分の兵法として、世に傳る所、
始て書顕す事、地水火風空、是五巻也。
我兵法を学んと思ふ人は、道をおこなふ法あり。

第一に、よこしまになき事をおもふ所。
第二に、道の鍛錬する所。
第三に、諸藝にさはる所。
第四に、諸職の道を知る事。
第五に、物毎の損徳をわきまゆる事。
第六に、諸事目利を仕覚ゆる事。
第七に、目にみえぬ所をさとつて知る事。
第八に、わづかなる事にも気を付る事。
第九に、役にたゝぬ事をせざる事。

大かた如くのごとき利を心にかけて、兵法の道鍛練すべき也。
此道に限りて、直なる所を廣く見立てざれば、兵法の達者とはなりがたし。
此法を学び得ては、一身にして二十三十の敵にもまくべき道にあらず。
先づ氣に兵法をたへさず、直なる道を勤めては、手にて打勝ち、
目にみる事も人に勝ち、又鍛練を以て、惣躰自由なれば、身にても人に勝ち、
又此道になれたる心なれば、心を以ても人に勝ち、此所に至ては、
いかにとして人に負くる道あらんや。
又、大きなる兵法にしては、善人をもつ事に勝ち、人数をつかふ事に勝ち、
身をたゞしくおこなふ道に勝ち、国を治むる事に勝ち、民をやしなふ事に勝ち、
世の例法をおこなひ勝ち、いづれの道におゐても、人にまけざる所をしりて、
身をたすけ、名をたすくる所、是兵法の道也。


水之巻

一 兵法、心持の事。(抜粋)
兵法の道におゐて、心の持やうは、常の心に替る事なかれ。
常にも兵法のときにも、少もかはらずして、心を廣く直にして、
きつくひつぱらず、すこしもたるまず、心のかたよらぬやうに、
心をまん中におきて、心を静かにゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、
ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。

心の内にごらず、廣くして、廣き所に智恵をおくべき也。
智恵も心も、ひたとみがく事専也。
智恵をとぎ、天下の利非をわきまへ、物毎の善悪をしり、
よろづの藝能、其道々をわたり、
世間の人にすこしもだまされざるやうにして後、兵法の智恵となる心也。
兵法の智恵におゐて、とりわきちがふ事、有るもの也。
戦の場、万事せわしき時なりとも、兵法の道理を極め、うごきなき心、
能々吟味すべし。 


水之巻 後書

右書付くる所、一流の劔術、大かた此巻に記し置事也。
兵法、太刀を取りて、人に勝つ處を覚ゆるは、先づ五つの表を以て、
五方の構え搆をしり、太刀の道を覚へて惣躰自由になり、
心もきゝ出でて道の拍子をしり、おのれと太刀も手さへて、
身も足も心のまゝにほどけたる時に随ひ、一人に勝ち、二人に勝ち、
兵法の善悪をしるほどになり、此一書の内を、一ヶ条一ヶ条と稽古して、
敵と戦ひ、次第次第に道の利を得て、たへず心に懸け、急ぐ心なくして、
折々手にふれては徳を覚へ、何れの人とも打あひ、其心をしつて、
千里の道もひと足宛はこぶ也。
ゆるゆると思ひ、此法をおこなふ事、武士の役なりと心得て、
今日は昨日の我に勝ち、あすは下手に勝ち、後は上手に勝つと思ひ、
此書物のごとくにして、少もわきの道へ心のゆかざる様に思ふべし。
たとへ何ほどの敵に打勝ちても、習にそむく事におゐては、
實の道にあるべからず。
此利心にうかびては、一身をもつて数十人にも勝つ心のわきまへあるべし。
然る上は、劔術の智力にて、大分一分の兵法をも得道すべし。
千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす。
能々吟味有べきもの也。


※今回、火之巻および風之巻については省きます。


空之巻

二刀一流の兵法の道、空の卷として書顯す事。
空と云ふ心は、物毎のなき所、しれざる事を、空と見たつる也。
勿論、空はなきなり。
ある所をしりて、なき所をしる、是則ち、空也。
世の中におゐて、悪しく見れば、物をわきまへざる所を空と見る所、
実の空にはあらず、皆まよふ心なり。
此兵法の道におゐても、武士として道をおこなふに、士の法をしらざる所、
空にはあらずして、色々まよひありて、せんかたなき所を、空と云ふなれども、
是、実の空にはあらざる也。
武士は兵法の道を慥に覚へ、其外、武藝を能く勤め、武士のをこなふ道、
少もくらからず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、
心意二つの心をみがき、觀見二つの眼をとぎ、少もくもりなく、
まよひのくものはれたる所こそ、実の空と知べき也。
実の道をしらざる間は、佛法によらず、世法によらず、
おのれおのれは慥なる成道とおもひ、能事とおもへども、心の直道よりして、
世の大がねにあはせて見る時は、其身其身の心のひいき、
其目其目のひずみによつて、実の道にはそむく物也。
其心をしつて、直成る所を本とし、実の心を道として、兵法を廣くおこなひ、
たゞしく明らかに、大き成所を思ひとつて、空を道とし、道を空とみる所也。

 空有善無惡
 智者有也
 利者有也
 道者有也
 心者空也


【参考資料】

獨行道

※死去の7日前、弟子の寺尾孫之允に「五輪書」と共に与えたとされている自誓書

一、世々の道にそむく事なし 
一、身にたのしみをたくまず 
一、よろずに依怙の心なし 
一、身をあさく思い、世をふかく思ふ 
一、一生の間よくしん(欲心)思はず 
一、我事において後悔せず 
一、善悪に他をねたむ心なし 
一、いづれの道にも、わかれをかなしまず 
一、自他共にうらみかこつ心なし 
一、れんぼ(恋慕)の道思ひよるこころなし 
一、物毎にすき(数奇)このむ事なし 
一、私宅においてのぞむ心なし 
一、身ひとつに美食をこのまず 
一、末々代物なる古き道具所持せず 
一、わが身にいたり物いみする事なし 
一、兵具は各(格)別、よ(余)の道具たしなまず 
一、道においては、死をいとはず思ふ 
一、老身に財宝所領もちゆる心なし 
一、神仏は貴し、神仏をたのまず 
一、身を捨てても名利はすてず 
一、常に兵法の道をはなれず 

    正保弐年五月十二日 
                新免武蔵 
                  玄信(在判)


最後に、武蔵が詠んだと伝えられる一首をご紹介します。

乾坤をそのまま庭に見る時は我は天地の外にこそ住め

これは「山水三千世界を万里一空に入れ、満天地とも攬る」という心境から詠まれたものと伝えられています。

何とも気宇壮大な感じがします。
私の拙い説明などより、そのままの響きを味わってください。


以上、小川





役行者伝説と修験道


役行者(634年-701年)

時代背景
聖徳太子没後12年後生、大化改新、壬申の乱、律令制度の制定など激動の時代を生きた。
※古事記の完成 712年、日本書紀の完成 720年、続日本紀の完成 797年。

公式と認められる歴史書に残る、役行者にまつわる唯一の記録は、続日本紀にある以下の記述。

丁丑。役君小角流于伊豆嶋。初小角住於葛木山。以咒術稱。
外從五位下韓國連廣足師焉。後害其能。讒以妖惑。故配遠處。世相傳云。
小角能役使鬼神。汲水採薪。若不用命。即以咒縛之。

(大意)
文武天皇3年5月24日(西暦699年、新暦6月下旬~7月初旬)、役君小角を伊豆大島に配流した。
そもそも、小角は葛城山に住み、咒術で称賛されていた。
のちに外従五位下となる韓国連広足(カラクニノムラジヒロタリ)も師と仰いでいた。
その後、妖しい咒術で人々を惑わしていると讒言された。
それゆえ、彼は遠方に配流された。
世間には次のように伝わっている。
「小角は鬼神を使役することができ、水を汲んだり薪を採らせたりした。
もし鬼神が命令に従わなければ、咒術を以て彼らを縛った。」と。

※広足は七三一年に外従五位下の典薬頭(テンヤクノカミ)に昇進。
 典薬頭とは医者を管轄する典薬寮(テンヤクノツカサ)の長官。

その後、日本霊異記その他の説話集に度々登場する。

その一つ役行者本記を取り上げる。
役行者本記は、一冊にまとめられたものとしては、最初の伝記である。

宗祖本記とも呼ばれるこの書物は、修験道が発展し開祖の伝記が求められるようになってまとめられたもので、編纂当時の信仰の対象としての姿を窺い知る資料として価値を見いだせる。
書かれた内容から、真言宗当山派系の修験者によるものと推定される。
役行者本記による役小角の系譜

【母方】
素佐之男尊-大己貴命-事代主命-天日方奇日方命(アメノヒカタクシヒカタノミコト)
-武飯勝命(タケイイカチノミコト) -武甕尻命(タケミカシリノミコト) -豊御気主命(トヨミケヌシノミコト)
-豊御気主命(トヨミケヌシノミコト) -大御気主命(オミケヌシノミコト) -阿田賀田須命(アタカタスノミコト)
-大田田禰古命(オホタタネコノミコト) -加茂津美命(カモツミノミコト) -加茂真木島臣
~中略(15代)~ 事葛城君-白専女(シラトウメ)(母)

【父方】
出雲の國の加茂の富登江-高賀茂真影麻呂(タカガモノマカゲマロ)

出雲の系譜を引き継ぎぐ者として、崇拝されていたことを思わせる。


役行者の教え
役行者の教えは文献としては残っておらず、口伝である。

「身の苦によって心乱れざれば、証課自ずから至る」
「わが道に入り証果を得んと欲するものは、十界頓超の行をなすべし」
 ※十界頓超の行・・・速やかに九界を超えて悟りの十界に入る行

【 頓超の行/迷門修行 】(諸々の伝承あり)
①地獄行・・・諸々の雑事を修め、日々の苦しい行に専念する。
       一念発起の菩提心を発す修行。
②餓鬼行・・・食を統制して苦行とする。体内の不浄を清める修行。
③畜生行・・・重荷を担って同朋と共に険しい山谷を越える。
       お互いを思いやる心を養う修行。
④修羅行・・・修行者が相撲をとる。
       争いの中に闘争心を制して邁進することで心身を練る修行。
⑤人道行・・・今までの罪障を懺悔し、六根清浄の身となる修行。
       ※六根とは、眼,耳,鼻,舌,身,意を指す。
⑥天道行・・・過去,現在,未来に顕れし神仏の名を唱え一心に礼拝する。
       俗界を離れ心境清明となる修行。

【 頓超の行/悟道の門 】
⑦声聞行・・・四諦の真理を修めて、四念住の境地に達する。
⑧縁覚行・・・十二因縁の法則を観り、煩悩を断じる。
⑨菩薩行・・・自らの修行で得た験力で衆生を救い、国を護る。
⑩仏界・・・・父母の生んでくれたこの身そのままが大日如来に成りきった
       という境地(での修行)。(自身自供養の秘法)
信仰としての修験道

蔵王権現(金剛蔵王権現)は、インドに起源を持たない日本独自の尊格で、修験道の本尊とされる。
役行者が一千日の修行に入り、感得された権現仏で奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊。

(JR東海のパンプレットに丁度良い説明があるので参照)


金峯山寺(奈良県吉野郡吉野町)と大峯山寺(奈良県吉野郡天川村)

金峯山寺本堂は「山下(さんげ)の蔵王堂」と呼ばれ、大峯山寺本堂は「山上の蔵王堂」と呼ばれている。
山上と山下の蔵王堂の距離は20数kmであり、現在では別個の寺院になっている。
元来は「金峯山寺」という一つの修験寺院を構成する一部であったが、近代以降に分離された。

蔵王権現が籠っている「龍の口」は、修験道修行者にとっては最大の聖地ともいえる空間。
山上の蔵王堂の最奥にある内々陣によって「龍の口」は、厳重に密閉されている。
現在も大峯山寺の施錠は厳重であり、内々陣は幾重にも錠が掛けられている。
内部を見た者、立ち入った者は、命を落とすとも言い伝えられてきた。
昭和の大改修(1987年)の際も、手つかずにされた程である。

しかし、明治初年の修験道弾圧の際、この禁が破られている。
明治維新政府の意向により、和尚立ち合いの元、当時の奈良県社寺掛の稲生真履により検分されたとの記録が「金峯山寺史」にある。

記録によると
戸は「錠が掛けられ鍵がなかったので取り除いた」
次の戸も「錠を掛けてあったが、鍵がなかったので取り除いた」
次々と錠前を壊し、戸を開けて入り、内部を検分したとのことだ。

古来、役小角は蔵王権現示現の姿を桜の木に彫り、ここに安置したと伝承されてきた。

しかし、松明で照らされたその空間には、実際には蔵王権現像は安置されていなかった。
その代り、鏡三面が安置されていた。


役小角自身が、出家僧ではなく(出雲の系譜の)在家修行者であったこと。
聖地ともいえる空間に安置されていた依代(ご神体)が鏡であったこと。
十界頓超の行の一つの境地が「自身自供養の秘法」といわれものであること。
…これらの事々が修験道の懐の深さを感じさせ、一層の魅力を放っている。
                                (小川)