幼少期の姉妹差別から思うこと | 人生100年時代を生きるシニアの独り言

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還暦過ぎのシニアが、自分の人生を振り返るただの独り言ブログです。
誰にも読まれないから、本音を書こうと思います

前回のブログからずいぶんと日が経ってしまったのですが、

ボチボチとまた振り返ってみようと思います。


やっぱり過去の事って、改めて振り返るのいやなのかなーと思ってしまいます。



タイトルの「姉妹差別」


姉妹間格差とも言えますが。


幼い私には納得がいかない事、悲しい事、辛い事がたくさんあったなーと思い出します。


私が我慢すればいいんだショボーンと無理矢理納得して

あまり考えないようにしてたのかなとも思います。


そう、仕方ないんだっていう諦めの心境かな?



特に、母が全てを諦めて生きてるみたいな感じだったので、自然にそんな思考や行動になっていったのかもしれないですね。



強烈に覚えている出来事をひとつ紹介します。



ある日祖父母が、姉と妹を連れて地方都市へ旅行に行った帰りに、ちょっと大きめのお人形を買って来たんです。


抱き人形って、言うのかな。



二人に2体のお人形を買ってあげて、


3人で使いなさいって言う祖母。


イヤイヤ無理でしょ!



3人でって言われても、姉も妹も自分が買い与えられた物は自分のものという認識しかないでしょうし、私に貸すわけもない。


3人のものなんて、そもそも思わないし、

無理無理ニヤニヤ




そういう、

わたしの分だけ無いっていうのは結構あった。日常的に。



その時は、悲しいというより諦め。


貸してくれるわけないじゃん!

それをわかってしまう幼児は、ごねたり泣いたり全然しません。


だいたい、3人のものならば、

「貸してもらう」じゃないですよね?

私のものでもあるんだから!


思考がすでに、あなたたちのものを私は使わせてもらう立場という認識が育っていたんだと思います。




たとえ貧しくておもちゃも一個しか買えなかったとしても、


3人が仲良く使えるような大人たちの働きかけや、こうやって仲良く使うんだよって気持ちがそこにあれば、姉妹間にも自然と、相手を思いやる気持ちが育っていったのだと思うけど。


そこがまったく無い大人たち。

大人としてのフォローがゼロ。



大人として、子供を育てるというよりも、


自分の価値観や好き嫌いをそのままストレートに子供にただぶつけている感じしかしない大人たちに翻弄され続けてた。

そんな家庭だったなと思います。




何十年も前の、こんな出来事を未だに思い出すのはなんでだろう?


格差はほんとに日常的に数々あったんだけど、強烈なのは今でも鮮明に思い出してしまいます。



小さい頃のわたしは、なんて言いたかったのかな?

子供らしく泣き叫んで、私にも買ってよー


とか、


なんで私のはないの?と素直に祖母に聞けたら、

どんな返しが来たのかな?

恐ろしくて絶対に言えないけどねガーンガーン



幼児期からすでに心に蓋をして、言いたいことも言えなくて、

言いたいことがその頃からわからなかったのかもしれない。


自分の気持ちがわからない、感情がよくわからないのは幼少期からずっとなんだなと、改めて思います。



そして今、この年になって、

感情をちゃんと感じる練習をしています。


子ども時代から積み重ねた、感じない心。


自分の中の、快・不快さえよくわからない。


わからないんだけど、不快な事が起こればイライラするし、

なんだかわからないけどモヤモヤする。


その、なんだかよくわからない感情はずっとあったんだと思うけど、感じないようにして、言葉にも行動にもできない。


それをちゃんと感じて、言葉にしていく練習を今やってる。

このブログも、その練習の一つかな。



ずっと感情を無かったことにしてた事で、なんだかわからないけど生きづらい人生だったなと、

幼い頃の経験が原因なのかなと、ついつい原因探しをしてしまう。


そんな自分も嫌だなぁと思いつつ、

その頃の感情や言いたかった言葉を、今ちゃんと表現してあげることも大事なんだと思いながら、ただ吐き出すために書いてみました。


差別とか格差とか、

そんな不快な想いは、さっさと手放したいのが本音です。


いつかきっと手放して、スッキリさせたいなと願いつつ、今日はこれでおしまいにします👋👋