穴沢天神社(あきる野市深沢)の例
あきる野市深沢にある穴沢天神社に安政4年(1857)に建立された松尾芭蕉の句碑「山路来てなにやらゆかし菫草」が建立されている。建立したのは在郷の清水茂平という人物である。この歌碑は穴沢天神社の石造物を調べるうえで当初から不思議な存在であった。何故なら、松尾芭蕉はこの地に一度も来たことがなく、句碑を建立する理由が見当たらない。そして、句碑と言えども、当時の金額では建立費用が100万円以上(石工代、人夫代、他)はするからである。どうして、昔の人々は大金をかけてまで松尾芭蕉の句碑を建立する必要があったのか全くの謎だった。
松尾芭蕉の句碑が建立されている穴沢天神社(あきる野市深沢)
1)石造物三体の意味
この穴沢天神社には松尾芭蕉の句碑以外にも庚申塔(享保6年:1721)と道祖神(安政4年:1857)が建立されているが、この二体の石造物は穴沢天神社向かって右側に建立されている。
松尾芭蕉の句碑は穴沢天神社向かって左側に建立されている
穴沢天神社の右側に庚申塔と道祖神が建立されている
2)正月三大縁起と検証
これらの三体の石造物を検証していくと、正月の三大縁起と言われてきた大黒様(甲子)、庚申信仰、弁財天(己巳)という神々の姿が見え隠れしてくる。
暦の中段に表記されている庚申、己巳、甲子の三大縁起
正月の三大縁起と石造物を重ね合わせると図のようになる
要するに、松尾芭蕉の句碑「山路来て・・・」は芭蕉が貞享元年(1685)甲子吟行と言って江戸から大阪に旅だった年が甲子の年だったので、あえて芭蕉の句碑を選んだのではないかと考える事ができる。また、道祖神は女神でもあるので、ここでは弁財天として祀ったのではないかと考える事ができる。
3)なぜ穴沢天神社にこのような石造物を建立したか
ようするに穴沢天神社は学問と武運の神さまなので、正月縁起にあやかることができない。従って、このような石造物を建立して正月に村人たちが三大縁起の功徳を得られるようにしたものと考える事ができる。(QED)