古文書は正確ではない!

 

民俗学や歴史の世界では、よく古文書などを引き合いにして論考されるケースがみられ、一般の人々は「古文書に書いてあるから信用できる」などと発言されることがある。私もこれまで同じ考えであったけれども、今回調べた「伊那石工」や「伊奈石工」が表記されている新編武蔵風土記稿を引き合いにしてみると、結構、間違いが多いのに気づかされた。内容は次の通りである。

 

1.古文書の間違い

(原文)

「村名(多摩郡伊奈村)の起るところを尋ぬるに、往古信濃国伊奈郡より石工多く移り住んで、専ら業を広くせし故に村名となせり。天正十八年御入国(徳川家康が江戸城に移った時)の後、江戸城石垣等の御用をつとむといえり。されど今はその職を業とするものなし、江戸日本橋より行程十二里、家数二百軒」(新編武蔵風土記稿より)

 

(間違い)

①信濃国伊奈郡は信濃国伊那郡の間違い

②江戸城石垣等の御用、多摩郡伊奈村の石工たちが活躍したのは太田道灌が築いた初代江戸城(16世紀中ごろ伊奈石が使われた)の話で、徳川家康が築いた江戸城は1590年頃、主に伊豆石で石垣が造られており多摩郡伊奈村の石工たちが活躍した記録は残されていない。尚、ここで言う石工とは石垣職人をさしている。また、信州伊那郡の石工たちが当時の阿伎留郷に移住したのは平安時代の頃と伝えられている。

 

現在の東京都あきる野市伊奈の町並み

長野県伊那市高遠町の風景、ここから石工たちが多摩郡伊奈村に来た

 

2.古地図の間違い

  添付の古地図(19世紀頃)の地図を見る限り、多摩地方にある大岳山と御岳山が左右逆になっている。また、地名では「大久野」が「大久保」、「留原(ととはら)」が「富原」というように地名表現が間違っている。

①大岳山と御岳山が左右逆、②大久野が大久保、③留原が富原