明治から昭和にかけて利用されてきた「稲井石」

 

毎日、ウクライナ戦争のニュースが続いていて心中穏やかではない。

日本においては昔から武士と武士の争いは「乱」、天皇家の争いは「変」、外国との争いは「事変」などと区別して呼ばれてきた。

日本は江戸時代から明治に時代が変わってくると、ロシアや中国、アジア諸国との戦争が中心に行われてきた。この中でプロパガンダとして活用されてきたのが「稲井石」である。この「稲井石」は明治政府がロシアと戦って戦勝した後から「忠霊塔」やら「忠魂碑」として各地の在郷軍人会が中心となって建立されてきたものである。この背景にあるのが慶応4年に明治政府が発令した「五榜の掲示(ごぼうのけいじ)」だと思われる。当時の国民はこの「稲井石」を見ただけで、即、天皇への忠誠が頭に思い浮かんだのではないだろうか。「稲井石」は驚くことに宮城県石巻周辺で取れる硬質の水成岩のことで、遠くはサイパン島にある旧日本軍の慰霊碑にも使用されている。

 

各地に建立されている忠霊塔や忠魂碑の殆どが「稲井石」

 

慶応4年に明治政府が発令した五榜の掲示