そろそろ「喫煙権」について考える時代が来ている | Market Cafe Revival (Since 1998)

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四つの単語でできた言葉の中で、最も高くつくものは「今度ばかりは違う」である(This time is different.)。

☆ 昨日書くと悪ふざけと思われそうだったので一日待った。今や嫌煙権は権利ではなく,規範化しつつある。これを書いている筆者も時と場合によりかなり厳しい嫌煙論者である。基本的な考えは,喫煙という行為は愛好者のための嗜好であり,例えば会社の貸与しているパソコンを使って就業時間中にインターネットの掲示板に投稿する行為と会社の準備した喫煙室で就業時間中に煙草を吸っている行為とは(たとえ自分のお金で買ったものであっても)同質のものである。煙草を吸って頭の中の考えをを纏めるのが許されるのであるなら,バカみたいにダラダラ続く残業時間にハンバーガーでも買ってきて空腹を少し満たしても(腹の皮が弛む=目の皮が弛むほどの量でなければ)同じような効果が得られるのではないか。


☆ 言いたいことは「喫煙者が優遇され過ぎていた」という「過去の話」である。ここに「過去」と書いたように,今や喫煙者はAIGでしこたま退職金を貰って退職した金融エリートほどの逆風を受けている。AIGと比較されては喫煙者(いや「愛煙家」)も立つ瀬も無いだろうが,半面「タバコ依存症」であることにはもう少し自覚的であってもよいのではないかと思う。


☆ しかし元AIGのエリートの退職金に90%の税金をかけよという議論が冷静に考えれば「社会(共産)主義者の議論」であることに,さしもの米国議会も気付き始めたように,関東のとある県が実施しようとしている条例を筆頭に「まるで禁酒法ならぬ禁煙法でも作るのか」という議論のヒートアップが起こっているのは「やっぱりおかしい」。


☆ 筆者が煙草嫌いになった場所は大学生の頃のパチンコ屋だ。当時から「伏流煙」というヤツは天敵だった。あいつ(伏流煙)は,なぜか顔(というよりハッキリ言えば「目ん玉」)に向かって流れてくる。だから筆者のタバコ(のけむり)嫌いは筋金入りだ。


☆ それでも「県条例」はどこかおかしい。確かに伏流煙やタバコの煙じたいは願い下げである。反面,タバコ吸いが「どこにもいられない」ようにする規制は,どこかおかしい。健康権とか一種の「正義」的なものが絡んでいるだけに,いよいよおかしい。


☆ 個人の感情レベルとは別に「喫煙権」をどう保護するのか,一度考えてみる必要があると思う。思えばミョーな時代になったものだ。f^_^;