会社に入ったのは、とある過激な仕様のデジカメを世に出すためでした
結果で言うと、その製品は大失敗でした
元々エクストリームな製品だったので、作っている側からすれば失敗は織り込み済みでした
ただ、失敗の仕方がまずかった
一般客には正直売れる要素がない代物でしたが、当時としては革命的な自由度を持っていたので、マニアには売れるはずだったのです
今となってはIFもいいところですが、iPhoneの位置に居られたかもしれない製品だったのです
ところが、会社は”スケジュールの遅れ”と”セキュリティホールの危険性”を盾にこの製品から自由度を根こそぎ封印しました
文字通り封印です
自由に使える機能すべてにわざわざ蓋をして止めてしまったのです
誰が買うんだ?ていうかこれを出す意味はなんだ?いっそここでプロジェクトを止めるべきだ!私はざんざ上司と言いあいをしましたが、結局この製品は大きな開発費の赤字を伴うスケジュール遅延とスペックダウンを持って販売されました
万単位生産してワールドワイドで販売して、一ヶ月で数百台しか売れないという記録的な大失敗をしました
本社の偉い人が演説で「XXについては思い出したくない」と言われたときには本当に落胆しました
あそこで私が言ったとおり計画をいったん中止していれば、未来は違っていた筈です
…と、当時は思っていました
数年マネージャを経験して今は違った考えに至りました
あれは間違いなく”実験”ではなく”製品”だったのです
”製品”を作らなければならなかったのに”実験”だと思っていた私達が間違いだったのです
ただ、会社は私達にこれが”製品”であることをちゃんと説明する義務がありました
会社はわれわれが”製品”を作るという認識を持っている、と思い込んでいたのです
ミスコミュニケーションです
そして、私達はこれが”製品”だと理解した上で、最初に拒否しなければならなかったんです
それは私の義務だったのです
当時私はまだお金のことを考えていませんでした
細々とやっていた実験にお金と人が投入されたのがただただうれしくて仕方なかっただけだったのです
さて、国際的大企業を傾かせるくらいの世紀の大失敗をした後、私はまだ能天気でした
私の興味は組込OS上のプログラムをどこまで汎用機で開発できるか、に向いていました
Extreme Programming、Agileという言葉を見つけて、使うようになりました
自分の考えとの共通点が多かったからです
今でも自分は自分のオリジナルなソフトウェア理論を持っていると思っています
ただ、それを説明するのにExtreme Programming、Agileとその定義、キーワードはとても便利なので使っています
私は中国人エンジニアに興味を持ちました
会社が合併して、中国サイトができたのですが、会社の誰も彼らと一緒に仕事をしようとしませんでした
言葉が通じない、自分達よりレベルが低い、だから役に立たない、面倒を見るのはいやだ
当時まだ私は英語の”え”もできない、ダメな社会人でした
でも、ソフトウェアの仕事が日本だけでできる時代が長く続かないことも感じていました
なにより、日本に研修に来ていた中国人エンジニアは素直で勉強熱心でした
研修に来たけれど放置されている中国人に、自分の仕事の手伝いをさせたいと申し出ました
本当にただ放置されていたので、だれももんくを言いませんでした
新しいプロジェクトが私のところに来たとき、中国サイトを使うことを進言しました
受け入れられ、私は中国担当になりました
このときまだ私は先行開発の頭でいました
新顧客、新チップに中国開発、3つも新しいことを抱えてこれが”製品”のわけないじゃん?最初っから無理なんだから、行けるとこまでいって、ダメになったらごめんなさいしよう、と思っていました
あほです
でも、こんなあほに仕事を任せた上司と会社はもっとあほです
プロジェクトは当然火を噴きました
日本人が慌てて投入され、わけの分からない残業で大赤字を出して製品は出荷されました
残念だったのは、私がくみ上げて、中国に伝えたアーキテクチャが火消しの日本人に踏み荒らされてむちゃくちゃになっちゃったこと
その結果、私の仕掛けは”悪い見本”としてその後根こそぎ書き換えられることになります
この失敗を持って私は開発部に居場所を無くしました
私を拾ってくれたのは、新たに始めたデジタルメディアプレイヤーの部署。中国サイトが持っていたビジネスです
細々とDMPのプロトタイプを作りながら、転職先を探していました
もう限界だとおもったころ、会社が早期退職の募集を始めました
私はいちもにもなく応募しました
絶対辞めるつもりでした
この会社にいる理由が誰よりもなかったからです
会社と相談して、意思を伝えて、すっかり辞めるつもりになっていました
基本私はあほうなんだと重います
辞めると決めたら、なんだか悔しくなってきました
いま辞めたら本当に負け逃げだなぁと
今働いているDMP部署も構造的にイカレていて、このままでは先がないと思っていました
そこで、会社は絶対受け入れないだろう、と思える改善案をプレゼン資料にして、俺をDMPソフトウェア統轄にしたら会社を立て直してやる、という大上段なメッセージを添えて社長に提出しました
案外、社長は段取りを整えてバイスプレジデントの前でプレゼンをさせてくれました
原則、私の提案は受け入れられ、私は会社に残らざるを得ないことになってしまいました
ただし、私は未だDMPプロダクトのマネジメントを一回もやっていません。一度だけ、今始まったプロダクトのマネジメントをすること、それが条件でした
DMPのPLをしていたUさんは、私がはじめて間近に見た本物の理論的な管理職でした
彼は初めて、私に分かるように管理の意味とやり方を教えてくれました
なんというか、天地がひっくり返った感じでした
私は管理というのが面白くなってきました
いまだに誰よりもうまくはやくきれいにコードを書く自信はあります
でも、他人にやらせたほうがずっと楽しいな、と思えてきました
プログラムを作るのは好きです。でも、プログラムを書く人を作る、否、プログラムを作るチームを作るほうがもっと楽しくなってきました
DMPチームの中国人には優秀な人が多かったのも幸いしました
私は数年、チームを作るために働きました
残念だったのは、会社が約束を守らず、いつまでも私を1管理職として使い続けたことです
外資系会社の怖いところです
私に約束したバイスプレジデントも社長もいつの間にか居なくなり、あのプレゼンの時には存在が無かった香港オフィスができていて、そこの人間が私の行くべき位置に座っていました
この香港オフィスが曲者で…びっくりするほど技術レベルが低いのに、なんでか本社とつながりが強いのです
ここが実働部隊の中国との間に入って邪魔するわ、折角安い中国の人件費を押し上げるわ、最後は自分達で新事業たちあげるんだー!って日本が3年前にやってたようなことをはじめて少ない予算を垂れ流す始末
君達、それ日本のお客に見せても恥かくだけだからね…
私のポジションにいる彼は20世紀に取り残されたプログラマ。自分に力が無いてことを自覚するだけの能力の無い男。最後の最後まで話がつながりませんでした
というわけで、再度転職モチベーションがあがりまくっていたところにきた今回の退職でした
失敗したのは、まさかこのタイミングとは思わなかったこと
日本のお客さんの、おそらく最後の仕事がまだ残っているので、あと半年はさすがに生かしておくだろう、とたかをくくっていたのです
香港いったいどうやって私達なしでこの仕事やるつもりなんだろうか
まぁ、今となったら他人事なんですけどね