前回は柏市根戸の高射砲第二連隊跡を紹介しましたが、今回は旧陸軍柏飛行場跡を紹介します。

柏市十余二の柏警察署高田原交番の傍に門柱が立っている。これが旧陸軍柏飛行場の正門である。

門の奥は航空自衛隊の柏通信所である。

 

 

かつての柏飛行場正門

 

柏飛行場は、1937(昭和12)年に公布された防空法による帝都圏における軍防空の充実もため建設された。埼玉、千葉、神奈川など帝都圏各県には高射砲台、照空哨など帝都東京を防護するための防空施設が次々と設置された。帝都防空の主役となることを予定されていた陸軍は、東京周辺の防空戦闘機の充実を図った。同時に飛行隊の運用を適切にするため飛行場の整備も進められ、東京周辺への飛行場建設を急いだ。陸軍が目をつけたのが、広大な武蔵野台地が広がる埼玉県と陸軍演習場としてしばしば利用されていた千葉県であった。以後、埼玉、千葉両県には敗戦に至るまでいくつもの陸軍飛行場が建設されることになった。千葉県の東葛飾地域は陸軍飛行場建設の最有力候補の一つとなり、1945(昭和20)年の敗戦までに、田中村(現柏市)、松戸町(現松戸市)、鎌ヶ谷村(現鎌ヶ谷市)、藤ヶ谷(現柏市)に飛行場を抱えることになる。

東葛飾地域の三つの飛行場のうち、真っ先に開設されたのが柏飛行場(東部105部隊)であった。37年6月、近衛師団経理部は新設飛行場予定地を現在の柏市柏の葉周辺である田中村十余二に決定、約119ヘクタールの土地が飛行場用地として買収された。12月には柏飛行場を基地とする飛行第5連隊が開隊式を挙行した。飛行第5連隊は、38年(昭和13)年8月には飛行第5戦隊となり、飛行場の建設は、同年1月に起工式が実施され、11月頃に飛行場が完成した。同月に立川から飛行第5戦隊が移転、柏飛行場は帝都防空の第一線飛行場となった。移転当初は複葉の95式戦闘機が配備されていたが、間もなく空戦性能に優れた97式戦闘機に機種変更となった。

42(昭和17)年4月のドウーリットル隊による日本本土初空襲の影響により、97式戦闘機の局地戦闘機としての能力の限界を痛感した陸軍航空当局は、帝都周辺に展開していた飛行隊の機種変更を急いだ。97式戦闘機に替わって、複座の2式複座戦闘機屠龍が帝都防空の任につくことになった。

同年の夏には、松戸飛行場から独立飛行第47中隊が移駐。同飛行中隊は二式単座戦闘機鍾馗を装備していた。翌43(昭和18)年3月に、独立飛行第47中隊は調布飛行場に移駐、6月に同じ二式単座戦闘機鍾馗を装備する飛行第87戦隊が満州から移駐してきた。7月10日、南方船団援護のため、飛行第5戦隊は東ニューギニア、豪北方面に進出。11月25日には、満州から一式戦闘機隼装備の飛行第1戦隊が移駐、12月2日には油田地帯防空任務のため、飛行第87戦隊がパレンバンに移駐した。

翌44(昭和19)年、飛行第1戦隊は四式戦闘機疾風への機種変更を開始。7月に空襲による飛行場被害対策のため、飛行隊分散秘匿箇所を設置した。

このように各部隊がほぼ入れ替わる形で展開したが、B29による関東地方への本格的な空襲が始まった同年11月以降は頻繁に迎撃出動が行われた。

44年8月から終戦までに航空地区部隊として第7飛行場大隊、第4独立整備隊、第3飛行場大隊の各部隊が展開、発進準備や施設管理など各種地上支援任務を担当した。

柏飛行場は戦後、混乱の時代に食糧難打開のための緊急開拓地として、開発が行われたが、朝鮮戦争が始めると、米軍がここを強制的に接収し、1953(昭和28)年、トムリンソン通信基地となった。

 

 

正門の門柱横に設置された柏飛行場(東部105部隊)の説明板

 

 

返還後は、ススキなど背の高い草が生い茂る原野となっていたが、開発が進んで、現在は文化・スポーツの一大拠点となり、平和のシンボルとなっている。

 
 
柏飛行場の地図も掲載されている
 
正門の門柱横には、説明の看板がつくられている他、当時の基地の境界を示す石の杭などがわずかに残されている。