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戦後日本国民は切迫する衣食住の問題に追われてはいたが当然ながら娯楽も求めていた。限られた選択肢から最も手近な映画産業が娯楽の王道を進むこととなった。そこに東映に続いて日活がほぼゼロベースから出発を始めた。

観客というお宝を分けるなら仲間は一社でも少ないほうがいいという訳で、日活の俳優スタッフ等の引き抜き流出を防止するために、大映の永田雅一が先頭となり各会社は専属の俳優スタッフを他社映画には関わらないという、独占禁止法に抵触するような五社協定を取り決めた。

その後に日活は石原裕次郎を始めとする新人たちを発掘し独自路線を進むこととなり自身も協定に加わっていった。

 

ほぼそのころに始まったテレビ放送は、番組制作に人材を求めていた。

しかし映画スターがテレビに出てしまっては映画観客が減ってしまうという思惑から人気俳優のテレビ出演を禁止する口実として、映画会社は五社協定を持ち出したのだった。とはいえ人気俳優でない限りは映画俳優のテレビ出演の縛りはなかった。

そのころ丸井太郎は大映の大部屋俳優で映画ではセリフもないようなチョイ役専門であったが、テレビ出演した「図々しい奴」というキャラクターぴったしの儲け役を得て一躍人気者となった。

すると大映は人気俳優の貸し出し禁止という項目を盾に丸井のテレビ出演を禁止した。

大映に戻ったものの丸井に回ってくるのは相変わらずのチョイ役のみで、オファーが来るテレビ出演を望んでも許可が下りることはなく、いわば飼い殺し同然の扱いだった。

丸井を犠牲にすることがテレビに対する大映の意地だったのだろう。

そして一度はテレビの人気者になれた丸井は、身動きが取れずに忘れられていく現実と希望のない未来に悲観し、自から命を絶ってしまうという悲劇を招くことになった。

 

日本映画のテレビ対策は排他的村社会の発想で、現実を直視しない映画産業自体を象徴するものであり、そのような産業が衰退していくのは当然すぎることだった。

裸の王様だった永田の吹くおんぼろラッパ大映は、観客離れの流れを止めることができず、かつて排除しようとした日活と手を組んで制作本数削減の合理化を図ったものの倒産への道へと急落していった。