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人のサクセスストーリーというのは、当然ながら本人の才能が大いに作用するが、それ以上にチャンスをつかむ事が重要に思える。

もしかしたら幸運な出会いというものが最大のラッキーアイテムなのかもしれない。

 

映画に限らず傑作を作り続けるというのは簡単なことではない。それは才能の場合もあるだろうが状況も大いに作用してしまうものだ。

1950年代イギリスであまり目立たない作品を監督していたJ・リー・トンプソンが代役として抜擢された「ナバロンの要塞」が世界的大ヒットとなったのが1961年だった。

その年、日本では前年からのロングランが続く「ベン・ハー」やリバイバルにもかかわらず大ヒットした「風と共に去りぬ」更に「荒野の七人」「スパルタカス」「ウエスト・サイド物語」、そして日本映画でも「用心棒」「椿三十郎」という黒澤明の最も脂の乗り切った時期でもあり、テレビに押されて萎縮気味だった映画界が輝いた年でもあった。

その中に並んだ「ナバロンの要塞」は、娯楽映画の醍醐味を詰め込んだ傑作だった。

今では作るのがはばかれる様な、戦争娯楽アクションだが映画の面白さを味わうには最適といえる作品に仕上がっている。

 

トンプソンはその後「隊長ブーリバ」「太陽の帝王」といった娯楽アクションや「恐怖の岬」みたいなサスペンス物で才覚をみせていたが、1964年のコメディ「何という行き方!」あたりでつまずいたのか、その後は妙な作品を作ることとなる。

その中でオールスター西部劇「マッケンナの黄金」は「ナバロンの要塞」チームが作った大作だったが、単純なシナリオとオールスターの無駄遣いとしか言えない作品で、更に「猿の惑星」蛇足シリーズ最後の2作品を監督したり、その後のトンプソンが低迷していくのは止むを得ないことだったろう。

1970年代中頃からチャールズ・ブロンソン専門監督みたいになって、さえないアクションを量産し、中には「誕生日はもう来ない」などというブットビホラーを作り、どんどん名を下げていくことになる。

こうなると才能というより機会に恵まれたから傑作を作れた監督といえなくもない。結局トンプソンの輝いた時代は3~4年くらいしか無かったのだろう。

出会いは大切にという見本だろうが、その後の見極めも大事だよね。