先日は、またもや東日本大震災の余震かと思われるほどの揺れを感じた。
また、津波警報が出され、いつも収まるともわからない不安を感じた。
改めて、まだまだ私たちは、いつ起こるともわからない地震に対して不安を感じ、自然の驚異に対してはいかに無力であることかを感じた。
一方では、収まらない熊の問題が続いている。
毎日、今日こそ静かな日々でありますようにと願っているにもかかわらず、あいかわらずの熊による人身事故が続き、私の心もおちつかない。
今年はブナの実やドングリ類が大凶作である程度熊とのニアミスが多いかもしれないと予想はついてもこれほどまで里に下りてきてこれほどまで人に対して害を与えるとは専門家ですら想像が付かなかった。
それだけ、熊の生態については地震同様わからないことが多すぎるのだ。
ここでふと思う。
コロナ禍の時もそうだった。
まだ、解明されていないことが多いはずなのに、ワクチン接種のことや「コロナ警察」という言葉が流行ったように、他県に一歩も出てはいけない、はては他県ナンバーの車をSNSに挙げていたりと大変な騒ぎであった。
いつの間にか私たちは、わからないことはない、どんなことでもわかりうるという錯覚を持ちすぎていたのではないかということを。
養老孟子さん流にいえば、私たちの生活が都市化しすぎた、養老さんの別の言い方をすれば「ああすればこうなるだけになった社会」になったとでもいうのだろうか。
一方では、「自然とはああすればこうなるとは成り立たない世界である」と養老さんは喝破する。
さらにこんなことも述べていた。
「外側の自然が失われていくことと我々の心の中から自然が失われていくのはほとんど並行した現象だと私は思います。外の自然がなくなるから人間の心の中の自然が失われていくという面もあれば、人間の心の中から自然というつまり何モノともしれないもの、先の読めないもの、気味の悪いもの、そういう統制のできないもの、そういうものが失われていくにしたがって外の自然が失われる。私はたぶんそれは並行した現象であるというふうに考えています。」(「ヒトはなぜ、ゴキブリを嫌うのか?~脳化社会の生き方~養老孟子・扶桑社新書より)
あまり自然界の仮説法則を擬人化してはいけないことだろうが、「ジャンゼンーコンネル仮説」というものがある。
これは、「親木の周りには、その親木を狙わんとする様々な敵が集まることから親木から離れた実生のほうがより生存に有利になる」というものだ。
まるで、親木が子ども(実生)をどんな自然環境においてもあえて、親元から離れさせていくようなものだ。
先日、聞いた話だが驚いたことがある。
あるお寺のお坊さんから聞いたのだが、最近は「おじいちゃんやおばあちゃんのご遺体を小さな子ども(孫)に見せるのは残酷だから見せないままお骨の箱と対面させる」というのである。
人の死は自然の姿である。
子どもは肉親の死と向き合い、様々なことを学ぶ。
ヒトの力ではどうにもできないことも。
いわば自然の摂理と向き合っているのである。
それがいつの間にか忘れ去らろうとしている。
私たちにとって自然とは美しい姿を見せると同時に時に理不尽な姿を見せることがある。それは、子どもにとって時には残酷な話になるが、大人に向かう場面では避けては通れない話でもある。
今、様々な場面で、子どもからその機会が奪われていないだろうか。
恐怖感ばかりあおられ、閉塞した状況になっていないだろうか。
子どもは、そもそも大人よりも自然に近い存在だ。
生まれて間もない子どもは、自然の中で遊び、それは楽しく時には怖いことがあることも身体を通して学んでいく。
もし、その機会が奪われていたとしたらそれは「子どもを守る」とはいえないのではないか。
それどころかかえって「子どもの成長を奪う」ことにつながっていないだろうか。
「大人は魚を釣ってあげるのではなく魚の釣り方を教えるのだ」
という有名な言葉がある。
子どもは、大人とは違って将来に渡って生きて行かねばならない存在である。
だからこそ、言いたいのだ。
恐怖だけを印象付けるのではなく危険を避けるためのすべを教える、これは将来にわたって生きる力を身に付けることだととらえる。
いつまでも「籠の中の小鳥」状態にし続けてはいけないのだ。
いつかは身近な大人もいなくなる。
その時籠から抜け出した小鳥は自分で餌を探し、天敵からも身を守らねばならないのだ。
いずれ、熊問題はおちつくだろう。
だが、別の新たな問題が出てくるような気がしてならない。
自然と向き合うことは、決して理屈通りにはいくとはいえない。
むしろ、わからないことだらけだと言っても良いかもしれない。
しかし、だからこそ、自然とはシャットアウトせずに真正面に向き合うことの大切さを伝えていきたいと思うのだ。、