大河ドラマ「花燃ゆ」から
NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」を毎週欠かさず見ている。
毎回、感動しながら見ているのであるが、記録のあまり残っていない吉田松陰の妹である、杉ふみ(のちに久坂ふみ。そして美和になっている)に焦点をあてたドラマになっており、史実に沿ってはいるが、ふみ(美和)の細かい描写は、作者や作り手側の創作部分も否めないとは、わかっていても、面白い。
当時は顧みられることもなかった、女性に視点を当てているというのも、面白みがある。
昨日の話もまた面白かった。夫の久坂玄瑞の死後、久坂家は、お家断絶にあい、ふみは、美和と名前を変えて、奥勤めをはじめていた。その後、美和は、藩主の長男である毛利元徳の長男の守役となる。
ふみ(美和)は、奥から、山口の城への引っ越しの直前に1日(半日)だけ暇をもらって、一時帰宅した。老齢となり、体の調子が良くない父を見舞うためだ。
奥では、通常は帰宅が許されていないから、多分、これが、父との最後の別れになることを覚悟しての面会だった。
その際の美和(ふみ)と父のと会話が良かった。
美和「桜が散っておりますね。」
父「いや散っておるのではない。解き放たれておるのだ。」
自分の寿命はもう長くはもたないであろうことを悟った美和の父の言葉だった。
人間の魂が、死ぬと肉体から抜け出してあの世に行って自由で融通無碍になるように、この不自由な肉体と、この世の縛りから「解き放たれて」いるという表現をしているように感じられて、非常に味わい深かった。役者(長塚京三)さんの味もよく出ていた。
その後、父は、「寅(吉田寅次郎、吉田松陰のこと)よ、そこにおったのか。」ということばを残して、家族に見守られながら、安らかに息を引き取った。奥(山口城)にいる美和は、その場に行ける訳もなく、後日、母からの手紙で知らされたのだった。
もうひとつは、高杉晋作が、薩長同盟を藩主の世子である毛利元徳に進言している時とそれ以降の話だ。守役の美和は、そういう席にも同席が許される存在になっていた。
久坂玄瑞は、8.18の政変後、長州の失地回復をはかるため、京都で活動をしていたが、美和にしてみれば、夫の久坂玄瑞が、禁門(蛤御門)の変で、薩摩の攻撃で火に包まれる鷹司邸で寺島(作間)忠三郎とともに自刃したため、個人的な感情からは、薩摩は、夫の命を奪った、仇のような存在でもあった。
しかし、兄(吉田松陰)や夫の命をかけた尊皇攘夷路線に反するように、開国、討幕、薩長同盟を説く高杉晋作に対し、尊王攘夷路線を窮め尽くして敗れて死んだ、夫たちの命を礎にして、「よくもそんなに早く切り替えができるものですね」と言っているのだ。
高杉は答えて曰く「自分は、松陰先生の老中間部暗殺の時にも、尊王攘夷を掲げた京都進軍の時にも積極的になれなかったが、今は、自分の使命は、開国・倒幕にあったのだ、ということがわかった。」ということを答える。
美和は、その時は、その言葉を聞いて、黙っていた。
高杉晋作は、椋梨藤太ら後に「俗論派」と言われる藩の幹部たちへの政策に反旗を翻し、当初は、たった80名程度で長府の「功山寺」で五卿らに「長州男児の肝っ玉をお見せいたす」と言って、のちの伊藤博文や前原一誠らとともに功山寺で挙兵する。起死回生、一世一代の大きな決断だった。
師の吉田松陰から「死して不朽の見込みあらば、いつでも死すべし。生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。」という言葉を胸に刻み込んでいた高杉晋作にとって、たとえ死んでも不朽の見込みがあり、もし生き続けられれば、大業の見込みがある、どっちにころんでもこの選択しかなかったのだろう。
久坂玄瑞や寺島(作間)忠三郎、吉田稔麿、松浦亀太郎など死んでいった松下村塾の仲間たちや、長州の仲間たちの遺志を背負っての先祖代々譜代として仕えてきた長州藩の存亡をかけた覚悟の挙兵だった。
これが功を奏して、吉田松陰の兄である、杉梅太郎らが東光寺組を背景に藩主へ意見を具申して、これらが受け入れられて、椋梨派は、失脚。のちの正義派が藩の政権を担当することになった以降のことだ。
藩主の毛利敬親は、高杉や桂小五郎、小田村伊之助らの薩長同盟への意見を受け、「藩の面子か、国の将来か。ということだな。」と発言する。
そして、後日、元徳の長男の守役の美和がお世継ぎの赤子の世話をしていて、部屋に同席している際に、元徳が、改めて久坂玄瑞の妻である「美和」は、薩長同盟をどう思うか、率直に申してみよ、という御下問があった。
その時は、美和は、死んだ父の、「解き放たれておるのだ」という言葉や、「寅よ、そこにおったのか」という最期の言葉を思い出し、「寅兄(とらにい)も父も久坂も一緒に地上のしがらみから解き放たれて、大きな心で天から下を見ていて、人を恨むのではなく、赦せ、赦せ、と言っているように思います。」と、ひとつの段階を超えた発言をしたのだった。
大変感動するシーンだった。
NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」を毎週欠かさず見ている。
毎回、感動しながら見ているのであるが、記録のあまり残っていない吉田松陰の妹である、杉ふみ(のちに久坂ふみ。そして美和になっている)に焦点をあてたドラマになっており、史実に沿ってはいるが、ふみ(美和)の細かい描写は、作者や作り手側の創作部分も否めないとは、わかっていても、面白い。
当時は顧みられることもなかった、女性に視点を当てているというのも、面白みがある。
昨日の話もまた面白かった。夫の久坂玄瑞の死後、久坂家は、お家断絶にあい、ふみは、美和と名前を変えて、奥勤めをはじめていた。その後、美和は、藩主の長男である毛利元徳の長男の守役となる。
ふみ(美和)は、奥から、山口の城への引っ越しの直前に1日(半日)だけ暇をもらって、一時帰宅した。老齢となり、体の調子が良くない父を見舞うためだ。
奥では、通常は帰宅が許されていないから、多分、これが、父との最後の別れになることを覚悟しての面会だった。
その際の美和(ふみ)と父のと会話が良かった。
美和「桜が散っておりますね。」
父「いや散っておるのではない。解き放たれておるのだ。」
自分の寿命はもう長くはもたないであろうことを悟った美和の父の言葉だった。
人間の魂が、死ぬと肉体から抜け出してあの世に行って自由で融通無碍になるように、この不自由な肉体と、この世の縛りから「解き放たれて」いるという表現をしているように感じられて、非常に味わい深かった。役者(長塚京三)さんの味もよく出ていた。
その後、父は、「寅(吉田寅次郎、吉田松陰のこと)よ、そこにおったのか。」ということばを残して、家族に見守られながら、安らかに息を引き取った。奥(山口城)にいる美和は、その場に行ける訳もなく、後日、母からの手紙で知らされたのだった。
もうひとつは、高杉晋作が、薩長同盟を藩主の世子である毛利元徳に進言している時とそれ以降の話だ。守役の美和は、そういう席にも同席が許される存在になっていた。
久坂玄瑞は、8.18の政変後、長州の失地回復をはかるため、京都で活動をしていたが、美和にしてみれば、夫の久坂玄瑞が、禁門(蛤御門)の変で、薩摩の攻撃で火に包まれる鷹司邸で寺島(作間)忠三郎とともに自刃したため、個人的な感情からは、薩摩は、夫の命を奪った、仇のような存在でもあった。
しかし、兄(吉田松陰)や夫の命をかけた尊皇攘夷路線に反するように、開国、討幕、薩長同盟を説く高杉晋作に対し、尊王攘夷路線を窮め尽くして敗れて死んだ、夫たちの命を礎にして、「よくもそんなに早く切り替えができるものですね」と言っているのだ。
高杉は答えて曰く「自分は、松陰先生の老中間部暗殺の時にも、尊王攘夷を掲げた京都進軍の時にも積極的になれなかったが、今は、自分の使命は、開国・倒幕にあったのだ、ということがわかった。」ということを答える。
美和は、その時は、その言葉を聞いて、黙っていた。
高杉晋作は、椋梨藤太ら後に「俗論派」と言われる藩の幹部たちへの政策に反旗を翻し、当初は、たった80名程度で長府の「功山寺」で五卿らに「長州男児の肝っ玉をお見せいたす」と言って、のちの伊藤博文や前原一誠らとともに功山寺で挙兵する。起死回生、一世一代の大きな決断だった。
師の吉田松陰から「死して不朽の見込みあらば、いつでも死すべし。生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。」という言葉を胸に刻み込んでいた高杉晋作にとって、たとえ死んでも不朽の見込みがあり、もし生き続けられれば、大業の見込みがある、どっちにころんでもこの選択しかなかったのだろう。
久坂玄瑞や寺島(作間)忠三郎、吉田稔麿、松浦亀太郎など死んでいった松下村塾の仲間たちや、長州の仲間たちの遺志を背負っての先祖代々譜代として仕えてきた長州藩の存亡をかけた覚悟の挙兵だった。
これが功を奏して、吉田松陰の兄である、杉梅太郎らが東光寺組を背景に藩主へ意見を具申して、これらが受け入れられて、椋梨派は、失脚。のちの正義派が藩の政権を担当することになった以降のことだ。
藩主の毛利敬親は、高杉や桂小五郎、小田村伊之助らの薩長同盟への意見を受け、「藩の面子か、国の将来か。ということだな。」と発言する。
そして、後日、元徳の長男の守役の美和がお世継ぎの赤子の世話をしていて、部屋に同席している際に、元徳が、改めて久坂玄瑞の妻である「美和」は、薩長同盟をどう思うか、率直に申してみよ、という御下問があった。
その時は、美和は、死んだ父の、「解き放たれておるのだ」という言葉や、「寅よ、そこにおったのか」という最期の言葉を思い出し、「寅兄(とらにい)も父も久坂も一緒に地上のしがらみから解き放たれて、大きな心で天から下を見ていて、人を恨むのではなく、赦せ、赦せ、と言っているように思います。」と、ひとつの段階を超えた発言をしたのだった。
大変感動するシーンだった。