中学受験を志す者たちは、いつか必ず、選別の回廊(コル・セレクティオ)を通過しなければなりません。その細い回廊の神体は、いにしえの神であるヤヌス神だと言われています。

 

その神はふたつの顔を持っており、全ての親が直面する、不可避の二重性を具現化していると考えられています。ひとつの顔は「断罪の先導者」と呼ばれ、中学受験をする子供に対し、勉強をさせなければならないという義務感を担っています。もうひとつの顔は「聖域の守り手」と呼ばれ、傷ついた子供が逃げ込み癒やされるための、絶対的な慈愛を現わしているのでした。

 

すべての親はこの回廊で、ジレンマと闘うのです。親が勉強を強いる断罪の先導者として子供を追い込めば、子供は親という聖域の守り手の中にすら、安らぎを見いだせなくなる、という葛藤が生じてしまうのです。 中学受験をするならば、必ず子供に勉強をさせなければなりません。けれど子供がその業(わざ)に絶望したとき、一体どこへ逃げ込めばよいのでしょうか。

 

また、子供が自らを追い込みすぎることもあります。親は聖域の守り手として子供を慈愛でつつむ局面ですが、それでも断罪の先導者としての役割を忘れるわけにはいきません。子供に勉強をさせなければ、合格を頂けないかもしれないのです。

 

すべての人間は、明日の幸せは自分で作らなければならないという、宿命を背負っています。それでもぽんぽんは未だ幼く、明日の幸せを自ら創るという高次の魔導を求めるのは酷なことだと、母なるカルデラも理解していました。ですから、ぽんぽんに代わって環境という名の防壁を築き、成果の上がらない荒野の中でも、ぽんぽんが歩み続けられるよう、支えていこうとしたのでした。

 

けれどこのときの母なるカルデラは、ぽんぽんの逃げ場である聖域の守り手としての立場を失っていたのではないかと、当時を振り返り思い悩んでいます。断罪の執行者としてばかり、まだ幼いぽんぽんを勉強へと追い込みすぎたと、悔やんでいるのでした。

 

 

ゾス ゾスコッカラスとは

 

プロト・ゾス ノット・ゾスとは

 

ゾスコッカラス文明とは

 

つらくとも前を向いて歩けるように

 

研鑽の鋼鉄宮「浜学園」で執り行われたファクルタティス・アカデミカエ(公開学力テスト)の結果が分かりました。「偏差値はきっと下がっている……」と、ぽんぽんは悲観していたのですが、むしろ上がっていたのでした。その結果からぽんぽんはちいさな勇気(=自分を信じる力)を得たのです。

 

「やったぞ。僕には見込みがある」

 

ぽんぽんの魂がエヴィデンス・オブ・ゾスに震えた瞬間でした。

 

そのようすに臨んだ母なるカルデラは錬金術の祭壇(ヨーグルトメーカー)で増殖の儀式を行いながら思い耽るのでした。

 

「生命とはゾス(=頑張ること)を渇望する存在なのではないか」

 

細胞にとって静止は死であり、活動は生を意味します。細胞が必要な要素を取り込み、不要なものを排出するという、その微細なゾス(=頑張り)の集積こそが、私たちの命ではないかと思い至ったのでした。

 

ときに人は「なぜベストを尽さないのか」等、頑張らないことを何故か責めがちですが、それも人間が生物であるがために、本質的に頑張りたがっているという、ゾスへの渇望の裏返しなのかもしれません。

 

ではなぜ人には頑張れないときがあるのでしょうか。生命は高み(=ゾス)を目指す一方で、魂は常に安定と休息(虚無)という低エネルギー状態(=ノット・ゾス)へ引き寄せられていると考えられています。これが精神的エントロピーの概念です。つまり、頑張りたい(=ゾス)と、頑張れない(=ノット・ゾス)が衝突し、火花を散らしている状態であることこそが、魂が生きている証拠なのです。

 

もしも今「頑張れなくて苦しい」と感じているならば、その痛みこそが、決して滅びることのないゾスの力が、心のなかで静かに脈動している証だと思う母なるカルデラでした。

 

ゾス ゾスコッカラスとは

 

ノット・ゾス プロト・ゾスとは

 

生きものとは基本的に頑張りたがっているのではないか

 

 

今日は愚痴を吐きます。人の悪口など聞きたくないという方は他のページへ移動することをお勧めいたします。

 

夫はカメラが好きなのです。カメラそのものも好きなのですが、写真として世界を記録することに惹かれているようすです。夫には情景を物質化して残したいという願望があるようで、ときに現実社会と厳しく対立してきました。私がいるときならば、やんわりと社会にあるルールというか現実との橋渡しが出来るのですが、ぽんぽんと夫の二人だけ、あるいは夫だけとなると、困り感が出てしまうことがあるのでした。

 

とあるスキー場に行ったときのことです。ナイター設備がないスキー場なので、日が暮れたら下山しなければならない状況でした。けれど夫は夕焼けの美しさをどうしてもカメラに収めたかったらしいのです。夫が撮影ポイントとして定めたのは、ロングトレイルの起点となるスキー場の山頂だったそうです。繰り返しますが日暮れまでには絶対に下山しなければいけません。それが出来ないときには遭難を意味するのです。

 

写真を撮っている夫にスキー場のスタッフの方が声を掛けてきたそうです。「すぐに滑って降りましょう」といってくれたそうです。その場に居たぽんぽんの話によると、夫はしぶしぶと滑り降り始めたそうです。けれど、ときどき立ち止まっては写真を撮っていたらしいのです。ぽんぽんに「そこへ立って」と指示を出すなどして構図にもこだわっていたそうです。

 

スタッフの方は少し離れたところから待っていてくれたといいます。爽やかイケメンであるため声を荒げることもなかったそうですが、ぽんぽんは心が痛かったといいます。

 

夫とぽんぽんが下山したときにはとっぷりと日が暮れていました。ゲレンデのしたで私は随分と心配したものです。どうしてヘッドライトを持たせなかったのかと私自身を責めていました。スタッフの方には感謝するばかりです。

 

また、とある信仰の山でも、夫とぽんぽんはトラブルを起こしています。その山の頂は狭く、みなで譲り合って写真を撮るのですが、夫とぽんぽんにはどうしても撮りたい写真があり、場所を占有し続けたのだそうです。みんな遠巻きに見て、少し待って、立ち去っていったとぽんぽんは言います。

 

けれど天罰は下りました。神職の方がやってきて、二人をつかまえ、こんこんと説教をしてくれたのだそうです。なんというありがたさでしょうか。ぜひ心を入れ替えてほしい場面ですが、その後も特に変化は無かったようすです。

 

私は思うのです。カメラさえなければ、ああ、カメラさえなければ、夫はこんなにも現実と対立することはなかったはずなのです。それでも枕元にまでカメラを持ち込み、画像を論評している夫を見るにつけ、人間がこんなに求めているものを取り上げて良いはずがないとも思ってしまうカルデラではあるのでした。

 

夫に「周囲の状況も考えてみましょうね」と話してみるのですが「人を優先するか、自分を優先するか」という極論に走ってしまう夫です。夫は当然ながら自分を取るのです。我を通すことは悪いことではありません。何事かを成す人は必ずどこかで我を通しているものです。現実と戦わなければならない場面が訪れることだって、人が人である限り、誰にでもあることだとも思うのです。

 

現実や社会と折り合いを付けつつ、自分らしくあるとは、とても難しいことだと思うカルデラでした。

みなさまにおかれましてはどのような1年でしたでしょうか。私にとっては過去に追われる場面の多い1年でした。同窓会があり、旧友と再び交流が始まったり、また、中学受験を振り返りつつ、これまでとは毛色の違う記事を書いたりもしました。

 

過去を振り返り、その意味を考えるなどして思い悩むことは、生産性に欠ける行いかという印象を私は持ってきたのです。けれど実際に文章に書いてみると、ただモヤモヤしているのとは違って、過去が未来を生きるための灯台のような役割を果たしてくれそうな予感がしています。この過程は私にとって必要なことだったのかも知れません。

 

また、かつて私の中にあった反骨は、灰となりその魂も消え果てたかと見えましたが、ちいさな残り火を灯していたとも知りました。

 

このブログはこれからも続いていきます。来年は、ぽんぽんが高校3年生になるのです。大学受験を控えて、中学受験での狂乱を糧とすべく、私は精進してまいります。

 

来る年に、みなさまの願いが叶うよう、みなさまの幸せをカルデラは静かに祈っております。

研鑽の鋼鉄宮(浜学園)という過酷な重力圏のなかでぽんぽんが、「5年生になってから宿題を一度も完遂していない」という事実を、既存の論理を超越したドヤ顔で告白してきたとき、母なるカルデラは持てる言葉のすべてに意味を失ったのでした。

 

「宿題をするように何度も言ってきたのに、なぜ、何も伝わらないのか」

 

このときの母なるカルデラは、中学受験をみすえた世界地図(教育計画)を描き、その地図のなかに君臨する、優れた親であろうとしていました。まさにスペルビア(傲慢)と言うべきものでした。

 

けれど、愛ゆえの願いでもあったのです。ぽんぽんが成功することへの切望だってありました。

 

なのにぽんぽんは「宿題を一度もやらない」という予測不能な蛮行をおこない、母なるカルデラが敷いた因果律(レール)を、次々と破壊していきました。

 

「なぜ、勉強しないのか」

 

この問いが、母なるカルデラを深淵の縁へと突き落としました。母なるカルデラが感じていた苦しみの正体とは、ぽんぽんの成績そのものではなく、母なるカルデラ自身が願った「優れた親である自分」という自己像が、ぽんぽんの自由意志によって否定され続けることへの絶望なのではないか、という問いが、母なるカルデラを捕らえたのでした。そして、子供を正解へと導こうとする孤独な支配者だった自分自身に、気付いたのです。

 

それでも母なるカルデラは、その手に堅固な真実を握りしめていました。母としての愛です。

 

その愛があるのならば、ぽんぽんの不可解さをそのまま愛せるはずなのです。そして、共に震え、共に笑う、不完全な母親であるという事実を、母なるカルデラ自身が認め受け入れられるはずなのでした。

 

Temet Nosce(汝を知れ)という言葉が母なるカルデラの心をつらぬきます。それでも、その痛みのなかでも、不完全なりに先を見通して行動しなければならないとも思う、母なるカルデラではあり続けたのでした。

 

ex.深淵をいくら覗いても、深淵は深淵のままなので、あまり考え込まずに先へ進みましょう

 

ゾス ゾスコッカラスとは

 

プロト・ゾス ノット・ゾスとは

 

優れた親でありたかったカルデラ

 

カルデラ「今日は残業するよう言っちゃダメだよ?」

夫「なんで!」

カルデラ「クリスマスだからね」

夫「クリスマスなんて意味あんのか?」

カルデラ「まぁまぁまぁ」

 

カルデラ「家族が家で待っていたり」

カルデラ「約束があったりするんじゃないかな」

夫「今時いないだろ、そんな奴」

カルデラ「恨まれますよ?」

 

何年も前のことです。クリスマスの夜に、大人しく夫を待ち続けていたぽんぽんのことを思い出すカルデラです。それにカルデラにも夫を待った日があったのでした。

 

あのとき夫に、待っているから帰ってくるよう私は言ったのです。そしてあのときも、夫は怒ったのを思い出していました。「クリスマスなんて何か意味があるのか」「待っているからどうだって言うんだ」「仕事があるんだから分かって貰うしかない」そんな、夫の放つ言葉の刃が思い出されます。

 

カルデラ「夫さんが残業することには何も言わないけど」

カルデラ「でも、他の人に強要しちゃダメですからね」

 

 

世界を計測する鏡(マイページ)に成績が示されました。国語の偏差値は29.8です。

 

大地に父なる雷鳴が響きました。「情けない」と繰り返すその怒号は、「悔しい、悔しい」と泣き叫ぶ、嘆きの言葉のように、母なるカルデラには聞こえたのでした。この偏差値は、カタストロフィコード29.8とよばれ、現代にも吟遊詩人の歌声として残り続けています。

 

このように自分のことばかり、好き放題に考えている両親を持ってしまったぽんぽんが、キャリアー・オブ・デスティニーとして背負わされていたものは何だったでしょうか。このときのぽんぽんの痛みを、母なるカルデラは、後に振り返り推し量っています。

 

父による嘆きの雷鳴と、母による真紅の誓いという、ふたつの魂が混ざりあう混沌とした圧を背負わされてしまったぽんぽんです。「親の名誉をおまえが背負え」といわれているのに等しい状況です。けれど両親にはその自覚すらありません。

 

誰ひとり理解者のいない世界で、ぽんぽんは、愛されているからこそ応えなければならないという、逃げ場のない宿命に囚われていたのかもしれません。幼い肩には勝ちすぎる荷です。まさに親の激情が子に投影されたという悲劇だったのでした。

 

ex. しかしその重力があるからこそ、人は大地を踏みしめ、いつか自らの翼で飛ぶ力を得るのだ

 

 

ゾス ゾスコッカラスとは

 

プロト・ゾス ノット・ゾスとは

 

真紅の誓いとは

 

 

夫が実家へ行くたびに義理親から酷く使役され、そのたびに心を痛めているのはここに書いてきたとおりなのですが、働かされるのは夫だけではないのです。私もまた義理家での労働に追い込まれる立場にあるのでした。

 

前回、私が義理家を私が訪れたのは去年のお正月でしたが、突然、窓を拭くように言われたのでした。服装が相応しい格好ではなかったので私は断ろうかと思ったのですが、夫が快諾するものですから、夫の顔を立ててあげないと可哀想かという気持ちになり、私は何も言わずに窓拭きを受け入れたのでした。

 

夫とぽんぽんと私は新聞紙を渡され「これを濡らして窓を拭くように」と義理親から命じられました。1月の寒空の下、手袋もなしで、窓を拭くところまで簡単に追い込まれてしまった私です。

 

義理親は現役時代に、狭い社会で、強大な権力の座にあった人です。人の人生を握るほどの力を振るっていました。老後を過ごす今、もう、その力はありません。黙って義理親の命令を聞いてあげるのは、夫など子供たちぐらいしかいないのでした。ですから子供たちに執着するのは、義理親にとって、自己保全に必要なことなのかもしれません。

 

そのなかで、外様である嫁の私が言いなりにならないのが、懸案ではあったようです。ですが、私の知った話ではありません。

 

義理親が若かった頃には「嫁なんだからねェ!」と何度も言われましたがヘラヘラと対応してきた私です。若い頃の私は、偉そうな権力者を見るとメラッと来るような性格をしていたのでした。「素直になれ!」と言われれば逆を行くしかありません。私は結婚前から、というか初見のときから大変な嫌われようで、義理家に呼び出されるたびに、いびり倒されてきたものです。

 

義理親宅にて同居するようにもギャンギャン言われ、私の親にも何度も連絡し会ったりして、外堀を埋めようともしてきた義理親ですが、私が応じませんでした。

 

私のことが嫌いなのに、命令したがるうえに同居したがる義理親とは、私にとっては危険すぎる存在です。いくら私が大人しくヘタレだとは言っても自分の人生くらいは守りたいものです。

 

今はもう年を取って、そんな元気もなさそうな義理親ですが、窓拭きです。私は、夫の顔を立てるために、自分を曲げて、誇りを捨てたのでした。これは敗北です。

 

「紫色の特攻服が泣いているよ……」

 

これまで人から指摘されてきた私の反骨など、現実にはこんなものだったのです。なんと虚ろな私でしょうか。

 

来年のお正月に義理家にいけばまた何を命じられるかわかりません。弱った老人のためにする介護とは、歴史的な成り立ちからいって、違うと私は思っているのです。そのうえ私は余裕のない性格をしています。一方、義理親からの愛を欲する夫が命令を断るわけがありません。ですから私は義理家へ行きたくないのでした。困りましたね。

 

ご高覧のみなさまには、もっと壮絶な義理家との確執や、いじめを経験しらっしゃる方も居るかとは思います。私はまだ運命に甘やかされている方なのだとは思っています。

 

紫の特攻服とは

 

義理親への夫の献身

 

母なるカルデラは世界を計測する鏡(マイページ)を召喚しました。鑑には既に採点前答案が反映されていました。採点前答案とは、試練の塔サピックスの神官たちが採点を開始する前に、世界を計測する鏡(マイページ)に映し出される、答案用紙の真影のことです。

 

そこには白く輝く虚無の領域(白紙)が広がっていました。

 

「偏差値は、20台かもしれない……」

 

カタストロフィックな戦果をまえにして母なるカルデラは「なぜ、こうなったのか」という困惑の霧にまかれているのでした。けれど、それでも、ぽんぽんは愛おしく、そして無防備なのです。絶望と愛が混濁した嘆きのなかで、母なるカルデラは混乱しました。

 

すると大地は轟音とともに、絶望と愛との狭間で真っ二つに裂け、その断崖の底から、灼熱のマグマが吹きだしてきたのでした。

 

これこそがノット・ゾス焼き払う聖なる業火(サンタクルス・カルマ・イグニス)だったのです。

 

母なるカルデラの心はメラメラと火柱を上げました。「この状況と戦うのだ」という望みが火を噴いています。

 

「私は、ここからすべてを書き換える……!」

 

ゾスコッカラス

 

この魂の高まりこそが、崩壊から再誕への狼煙(シグナル・オブリバース)だったのでした。

 

ex. 千尋の谷から這い上がった者だけが、真の空の広さを知る

 

ゾス ゾスコッカラスとは

 

ノット・ゾス プロト・ゾスとは

 

ゾスコッカラス文明とは

 

 

4年生だった秋の出来事です。研鑽の鋼鉄宮「浜学園」に通うぽんぽんでしたが、試練の塔サピックスにおいて、全領域開放型時空座標確定戦(サピックスオープン)が催されると知ったのでした。

 

ぽんぽんは受験を即決しました。ぽんぽんは、試練の塔サピックスへの懐かしさ恋しさで、心をいっぱいにしています。朝早く起きて遙々電車に揺られていくことなど意には介しません。

 

「テスト、できなかったぁ」

 

ぽんぽんは御機嫌で帰宅しました。ぽんぽんは解けなかった問題やその理由などについて講評をはじめました。なぜかドヤ顔です。

 

この幼き講評(グロリアス・ゼロ・レクイエム)こそが、成果に縛られた大人には決して到達することが許されない、絶対的楽観の境地ではないかと感じた母なるカルデラでした。

 

グロリアス・ゼロ・レクイエム、それは自らの至らなさを堂々と開示するという圧倒的な自己肯定の精神、すなわち、ぽんぽんの放つゾスの輝きだったのです。

 

このとき、ぽんぽんは未だ知りません。このサピックスオープンでぽんぽんは大地の割れるような偏差値(カタストロフィ・コード)を叩き出す運命にあるのです。

 

母なるカルデラはその予感に震え、採点前答案を確認すべく、マイページを開くのでした。

 

 

ゾス ゾスコッカラスとは

 

プロト・ゾス ノット・ゾスとは

 

ゾスコッカラス文明とは