秩序ある存在としてありたい母なるカルデラです。しかし、それは厚かましさの極致とも言える禁断の直訴でした。

 

 

母なるカルデラは、みずからのプライドをゾスの祭壇に生け贄として捧げ、その心臓を貫きました。そして、算数の偏差値が40台前半という致命傷を負っているのにもかかわらず「国語が凄いから褒めてほしい」と浜学園に迫ったのです。

 

だれかが聞けば、失笑するかもしれません。けれど、母なるカルデラは必死でした。ぽんぽんに「努力が報われたのだと感じさせてほしい」という、ただ1つの願いに突き動かされていたのです。

 

研鑽の鋼鉄宮「浜学園」たる知識の導師は笑いもせず優しく話を聞いてくれました。願いを伝え、お礼を言って、電話を切った後の母なるカルデラは、浅い息をつぎながら口を開け、しばらく宙を仰いでいたのでした。

 

研鑽の鋼鉄宮から帰宅したぽんぽんは、瞳を輝かせて言いました。

 

「ほめられたよ!」

「なんか、すごいって!」

「ちゃんと見ててくれてるんだなぁ」

 

ぽんぽんは研鑽の鋼鉄宮「浜学園」の導師から褒められるという、かつてない神託の加護を得たのです。「これで良かったんだ……」母なるカルデラは、自らの痛みと交換されたぽんぽんの喜びをまえに、緊張の糸がほぐれていくのでした。

 

ゾスコッカラス聖句 孤独なる戦士への戒律

己を知り外部の叡智を召喚すべし

「困ったときには人の手を借りましょう」という語句は一見すると穏やかな言葉に感じるかもしれません。しかし、孤高にある者としては、あるいは戦士として戦う者にとっては、それは自らの限界を認め、世界の理(ことわり)を動かすため恥を捨てるという、戦略的決断にほかなりません。手に余る困難があるのならば、臆することなく自己の欠落を外部の知性で埋め、ひとりでは到達しえないゾスを目指していきましょう。

 

ゾス ゾスコッカラスとは

 

プロト・ゾス ノット・ゾスとは

 

ゾスコッカラス文明とは

 

「あの、息子を褒めて欲しいんです」

 

それは酷暑の夏でした。研鑽の鋼鉄宮「浜学園」で執り行われたファクルタティス・アカデミカエ(公開学力テスト)の結果を伝える運命の刻版(成績表)がいつものように届いたのでした。

 

なんと国語の偏差値が65を超えています。カンニングを疑う場面かもしれません。けれど、ぽんぽんは下位のクラスに所属しています。たとえカンニングしたとしても意味を成さないのでした。更に長文読解の記述欄には、論理で構築された精神の城が築かれています。65という数値は、間違いなく、ぽんぽんが勝ち取ってきた偏差値であると母なるカルデラは確信したのでした。

 

母なるカルデラは言葉を尽しぽんぽんをほめました。いろいろなものが報われたのだと伝えました。

 

けれど、ぽんぽんを言祝(ことほ)いでいるのは母なるカルデラひとりです。むしろ憤怒の業火に燃える夫は、ぽんぽんを叱りつけたのでした。算数の偏差値が40台前半というカタストロフィックな結果だったためです。

 

夫の言い分は理解しますが、母なるカルデラにとって算数が崩壊していることなど、その局面ではどうでも良いことに思えていました。そして、この状況を打破するためには、家庭という空間を脱するしかないと勇気を奮い起こしました。

 

他者がぽんぽんを褒めないのなら、世界を動かしてでも褒めてもらうしかないと、心を決めたのです。

 

母なるカルデラは震える手で、異界の門(携帯電話)を取りだしました。電話する先は、研鑽の鋼鉄宮「浜学園」です。

 

つづく

 

 

ゾス ゾスコッカラスとは

 

プロト・ゾス ノット・ゾスとは

 

「あの、息子を褒めて欲しいんです」

 

浜学園にも大変お世話になりました。感動秘話的なエピソードはもちろんあります。浜学園は、ぽんぽんがひとりの少年へと脱皮していった4年生5年生のときに支えてくれた、特別な塾です。いろいろなことがありました。

 

勉強に関することはもちろんですが他にも、例えば浜学園の教室で起こった、いじめというか、諍いに、浜学園の先生が熱量を持って介入してくれて、解決へと導いてくれたという出来事がありました。浜学園の先生は子供たちと向き合ってくれたのです。また浜学園に専任されている臨床心理士の先生が相談に乗ってくれたこともありました。電話相談に乗ってくださった職員の方も優しかったです。私にとっては人間の救いが浜学園にはあったのです。

 

ただ、ぽんぽんは近所の浜学園に通っていたのでした。近所であるが為に、学校の友達がそのまま浜学園にもいる、という状況になっていました。ですから、当時のぽんぽんに起こった出来事は学校の友達と共有している例が多く、身バレにつながりそうで、筆が進まずにいたのです。

 

けれど、身バレに繋がりにくいエピソードもあるので、これから紹介したいと思います。

 

ご高覧のみなさまにはご心配をおかけしました。これからもぽんぽんの成長物語は続いていきます。よろしくお付き合い下さいませ。

 

 

古代ゲルマンの民によるルーン文字の導き

 

中学受験を志す者たちは、いつか必ず、選別の回廊(コル・セレクティオ)を通過しなければなりません。その細い回廊の神体は、いにしえの神であるヤヌス神だと言われています。

 

その神はふたつの顔を持っており、全ての親が直面する、不可避の二重性を具現化していると考えられています。ひとつの顔は「断罪の先導者」と呼ばれ、中学受験をする子供に対し、勉強をさせなければならないという義務感を担っています。もうひとつの顔は「聖域の守り手」と呼ばれ、傷ついた子供が逃げ込み癒やされるための、絶対的な慈愛を現わしているのでした。

 

すべての親はこの回廊で、ジレンマと闘うのです。親が勉強を強いる断罪の先導者として子供を追い込めば、子供は親という聖域の守り手の中にすら、安らぎを見いだせなくなる、という葛藤が生じてしまうのです。 中学受験をするならば、必ず子供に勉強をさせなければなりません。けれど子供がその業(わざ)に絶望したとき、一体どこへ逃げ込めばよいのでしょうか。

 

また、子供が自らを追い込みすぎることもあります。親は聖域の守り手として子供を慈愛でつつむ局面ですが、それでも断罪の先導者としての役割を忘れるわけにはいきません。子供に勉強をさせなければ、合格を頂けないかもしれないのです。

 

すべての人間は、明日の幸せは自分で作らなければならないという、宿命を背負っています。それでもぽんぽんは未だ幼く、明日の幸せを自ら創るという高次の魔導を求めるのは酷なことだと、母なるカルデラも理解していました。ですから、ぽんぽんに代わって環境という名の防壁を築き、成果の上がらない荒野の中でも、ぽんぽんが歩み続けられるよう、支えていこうとしたのでした。

 

けれどこのときの母なるカルデラは、ぽんぽんの逃げ場である聖域の守り手としての立場を失っていたのではないかと、当時を振り返り思い悩んでいます。断罪の執行者としてばかり、まだ幼いぽんぽんを勉強へと追い込みすぎたと、悔やんでいるのでした。

 

 

ゾス ゾスコッカラスとは

 

プロト・ゾス ノット・ゾスとは

 

ゾスコッカラス文明とは

 

つらくとも前を向いて歩けるように

 

研鑽の鋼鉄宮「浜学園」で執り行われたファクルタティス・アカデミカエ(公開学力テスト)の結果が分かりました。「偏差値はきっと下がっている……」と、ぽんぽんは悲観していたのですが、むしろ上がっていたのでした。その結果からぽんぽんはちいさな勇気(=自分を信じる力)を得たのです。

 

「やったぞ。僕には見込みがある」

 

ぽんぽんの魂がエヴィデンス・オブ・ゾスに震えた瞬間でした。

 

そのようすに臨んだ母なるカルデラは錬金術の祭壇(ヨーグルトメーカー)で増殖の儀式を行いながら思い耽るのでした。

 

「生命とはゾス(=頑張ること)を渇望する存在なのではないか」

 

細胞にとって静止は死であり、活動は生を意味します。細胞が必要な要素を取り込み、不要なものを排出するという、その微細なゾス(=頑張り)の集積こそが、私たちの命ではないかと思い至ったのでした。

 

ときに人は「なぜベストを尽さないのか」等、頑張らないことを何故か責めがちですが、それも人間が生物であるがために、本質的に頑張りたがっているという、ゾスへの渇望の裏返しなのかもしれません。

 

ではなぜ人には頑張れないときがあるのでしょうか。生命は高み(=ゾス)を目指す一方で、魂は常に安定と休息(虚無)という低エネルギー状態(=ノット・ゾス)へ引き寄せられていると考えられています。これが精神的エントロピーの概念です。つまり、頑張りたい(=ゾス)と、頑張れない(=ノット・ゾス)が衝突し、火花を散らしている状態であることこそが、魂が生きている証拠なのです。

 

もしも今「頑張れなくて苦しい」と感じているならば、その痛みこそが、決して滅びることのないゾスの力が、心のなかで静かに脈動している証だと思う母なるカルデラでした。

 

ゾス ゾスコッカラスとは

 

ノット・ゾス プロト・ゾスとは

 

生きものとは基本的に頑張りたがっているのではないか

 

 

今日は愚痴を吐きます。人の悪口など聞きたくないという方は他のページへ移動することをお勧めいたします。

 

夫はカメラが好きなのです。カメラそのものも好きなのですが、写真として世界を記録することに惹かれているようすです。夫には情景を物質化して残したいという願望があるようで、ときに現実社会と厳しく対立してきました。私がいるときならば、やんわりと社会にあるルールというか現実との橋渡しが出来るのですが、ぽんぽんと夫の二人だけ、あるいは夫だけとなると、困り感が出てしまうことがあるのでした。

 

とあるスキー場に行ったときのことです。ナイター設備がないスキー場なので、日が暮れたら下山しなければならない状況でした。けれど夫は夕焼けの美しさをどうしてもカメラに収めたかったらしいのです。夫が撮影ポイントとして定めたのは、ロングトレイルの起点となるスキー場の山頂だったそうです。繰り返しますが日暮れまでには絶対に下山しなければいけません。それが出来ないときには遭難を意味するのです。

 

写真を撮っている夫にスキー場のスタッフの方が声を掛けてきたそうです。「すぐに滑って降りましょう」といってくれたそうです。その場に居たぽんぽんの話によると、夫はしぶしぶと滑り降り始めたそうです。けれど、ときどき立ち止まっては写真を撮っていたらしいのです。ぽんぽんに「そこへ立って」と指示を出すなどして構図にもこだわっていたそうです。

 

スタッフの方は少し離れたところから待っていてくれたといいます。爽やかイケメンであるため声を荒げることもなかったそうですが、ぽんぽんは心が痛かったといいます。

 

夫とぽんぽんが下山したときにはとっぷりと日が暮れていました。ゲレンデのしたで私は随分と心配したものです。どうしてヘッドライトを持たせなかったのかと私自身を責めていました。スタッフの方には感謝するばかりです。

 

また、とある信仰の山でも、夫とぽんぽんはトラブルを起こしています。その山の頂は狭く、みなで譲り合って写真を撮るのですが、夫とぽんぽんにはどうしても撮りたい写真があり、場所を占有し続けたのだそうです。みんな遠巻きに見て、少し待って、立ち去っていったとぽんぽんは言います。

 

けれど天罰は下りました。神職の方がやってきて、二人をつかまえ、こんこんと説教をしてくれたのだそうです。なんというありがたさでしょうか。ぜひ心を入れ替えてほしい場面ですが、その後も特に変化は無かったようすです。

 

私は思うのです。カメラさえなければ、ああ、カメラさえなければ、夫はこんなにも現実と対立することはなかったはずなのです。それでも枕元にまでカメラを持ち込み、画像を論評している夫を見るにつけ、人間がこんなに求めているものを取り上げて良いはずがないとも思ってしまうカルデラではあるのでした。

 

夫に「周囲の状況も考えてみましょうね」と話してみるのですが「人を優先するか、自分を優先するか」という極論に走ってしまう夫です。夫は当然ながら自分を取るのです。我を通すことは悪いことではありません。何事かを成す人は必ずどこかで我を通しているものです。現実と戦わなければならない場面が訪れることだって、人が人である限り、誰にでもあることだとも思うのです。

 

現実や社会と折り合いを付けつつ、自分らしくあるとは、とても難しいことだと思うカルデラでした。

みなさまにおかれましてはどのような1年でしたでしょうか。私にとっては過去に追われる場面の多い1年でした。同窓会があり、旧友と再び交流が始まったり、また、中学受験を振り返りつつ、これまでとは毛色の違う記事を書いたりもしました。

 

過去を振り返り、その意味を考えるなどして思い悩むことは、生産性に欠ける行いかという印象を私は持ってきたのです。けれど実際に文章に書いてみると、ただモヤモヤしているのとは違って、過去が未来を生きるための灯台のような役割を果たしてくれそうな予感がしています。この過程は私にとって必要なことだったのかも知れません。

 

また、かつて私の中にあった反骨は、灰となりその魂も消え果てたかと見えましたが、ちいさな残り火を灯していたとも知りました。

 

このブログはこれからも続いていきます。来年は、ぽんぽんが高校3年生になるのです。大学受験を控えて、中学受験での狂乱を糧とすべく、私は精進してまいります。

 

来る年に、みなさまの願いが叶うよう、みなさまの幸せをカルデラは静かに祈っております。

研鑽の鋼鉄宮(浜学園)という過酷な重力圏のなかでぽんぽんが、「5年生になってから宿題を一度も完遂していない」という事実を、既存の論理を超越したドヤ顔で告白してきたとき、母なるカルデラは持てる言葉のすべてに意味を失ったのでした。

 

「宿題をするように何度も言ってきたのに、なぜ、何も伝わらないのか」

 

このときの母なるカルデラは、中学受験をみすえた世界地図(教育計画)を描き、その地図のなかに君臨する、優れた親であろうとしていました。まさにスペルビア(傲慢)と言うべきものでした。

 

けれど、愛ゆえの願いでもあったのです。ぽんぽんが成功することへの切望だってありました。

 

なのにぽんぽんは「宿題を一度もやらない」という予測不能な蛮行をおこない、母なるカルデラが敷いた因果律(レール)を、次々と破壊していきました。

 

「なぜ、勉強しないのか」

 

この問いが、母なるカルデラを深淵の縁へと突き落としました。母なるカルデラが感じていた苦しみの正体とは、ぽんぽんの成績そのものではなく、母なるカルデラ自身が願った「優れた親である自分」という自己像が、ぽんぽんの自由意志によって否定され続けることへの絶望なのではないか、という問いが、母なるカルデラを捕らえたのでした。そして、子供を正解へと導こうとする孤独な支配者だった自分自身に、気付いたのです。

 

それでも母なるカルデラは、その手に堅固な真実を握りしめていました。母としての愛です。

 

その愛があるのならば、ぽんぽんの不可解さをそのまま愛せるはずなのです。そして、共に震え、共に笑う、不完全な母親であるという事実を、母なるカルデラ自身が認め受け入れられるはずなのでした。

 

Temet Nosce(汝を知れ)という言葉が母なるカルデラの心をつらぬきます。それでも、その痛みのなかでも、不完全なりに先を見通して行動しなければならないとも思う、母なるカルデラではあり続けたのでした。

 

ex.深淵をいくら覗いても、深淵は深淵のままなので、あまり考え込まずに先へ進みましょう

 

ゾス ゾスコッカラスとは

 

プロト・ゾス ノット・ゾスとは

 

優れた親でありたかったカルデラ

 

カルデラ「今日は残業するよう言っちゃダメだよ?」

夫「なんで!」

カルデラ「クリスマスだからね」

夫「クリスマスなんて意味あんのか?」

カルデラ「まぁまぁまぁ」

 

カルデラ「家族が家で待っていたり」

カルデラ「約束があったりするんじゃないかな」

夫「今時いないだろ、そんな奴」

カルデラ「恨まれますよ?」

 

何年も前のことです。クリスマスの夜に、大人しく夫を待ち続けていたぽんぽんのことを思い出すカルデラです。それにカルデラにも夫を待った日があったのでした。

 

あのとき夫に、待っているから帰ってくるよう私は言ったのです。そしてあのときも、夫は怒ったのを思い出していました。「クリスマスなんて何か意味があるのか」「待っているからどうだって言うんだ」「仕事があるんだから分かって貰うしかない」そんな、夫の放つ言葉の刃が思い出されます。

 

カルデラ「夫さんが残業することには何も言わないけど」

カルデラ「でも、他の人に強要しちゃダメですからね」

 

 

世界を計測する鏡(マイページ)に成績が示されました。国語の偏差値は29.8です。

 

大地に父なる雷鳴が響きました。「情けない」と繰り返すその怒号は、「悔しい、悔しい」と泣き叫ぶ、嘆きの言葉のように、母なるカルデラには聞こえたのでした。この偏差値は、カタストロフィコード29.8とよばれ、現代にも吟遊詩人の歌声として残り続けています。

 

このように自分のことばかり、好き放題に考えている両親を持ってしまったぽんぽんが、キャリアー・オブ・デスティニーとして背負わされていたものは何だったでしょうか。このときのぽんぽんの痛みを、母なるカルデラは、後に振り返り推し量っています。

 

父による嘆きの雷鳴と、母による真紅の誓いという、ふたつの魂が混ざりあう混沌とした圧を背負わされてしまったぽんぽんです。「親の名誉をおまえが背負え」といわれているのに等しい状況です。けれど両親にはその自覚すらありません。

 

誰ひとり理解者のいない世界で、ぽんぽんは、愛されているからこそ応えなければならないという、逃げ場のない宿命に囚われていたのかもしれません。幼い肩には勝ちすぎる荷です。まさに親の激情が子に投影されたという悲劇だったのでした。

 

ex. しかしその重力があるからこそ、人は大地を踏みしめ、いつか自らの翼で飛ぶ力を得るのだ

 

 

ゾス ゾスコッカラスとは

 

プロト・ゾス ノット・ゾスとは

 

真紅の誓いとは