昨年の今ごろ、夫は壊れかけていました。いつも終電近くに帰宅し、持ち帰りの仕事をこなし、睡眠時間は3時間ほど、そして朝になれば早々と出勤していく生活が何年も続いていました。休日だからといって休むことも少なかったのです。私の前で、叫び声を上げ、床を転げ回り、体を丸めて震えていた夫の姿を今でも鮮明に覚えています。

 

 

あの日々から働き方自体はあまり変わっていませんが、夫は内的な変化を迎えつつあるようすです。

 

最近夫は、職場の外に人間関係を持ったのでした。取得が大変難しい資格を持っている夫ですが、その部会のなかで、人の意見を聞く機会があったようなのです。

 

「終電まで働いても、それが自己研鑽に繋がっていないのではないか」

「そればかりでなく、職場からの評価すらも、得られていないのではないか」

 

という意見を聞かせてくれた人がいたようなのでした。

 

私も同じことを何度となく言ってきたのですが全く耳を貸してくれなかった夫なのに、他の人の言うことなら耳に入っていくようすです。夫とはそういう人なのだと思うしかありません。今はこの状況を有効活用すべきです。

 

夫「誰よりも早く職場にきて誰よりも遅く帰えることに」

夫「価値が無いって」

夫「そんな時間があったら勉強でもすべきだって」

夫「みんな、そうしてるって」

 

夫は自分の殻を破ろうとしています。今こそ勇気を振るって新しい人生を拓いて欲しいと願うカルデラでした。

 

 

 

 

 

 

???「……あ、あれが浪人勢だぽ」

 

たぬきは思わず尻尾を丸め、低く呟きました。そこにいたのは、現役たぬき特有のフワフワ感を一切持たない、修羅のたぬきたちでした。彼らは、ただ静かに参考書をめくっているだけです。しかし、その表情からは底知れぬ圧が漂っているのでした。

 

「おそらく彼らは、過年度受験の地獄を見てきた者達だ。……面構えが違う」

 

そうです、彼らの眼光には、人生に裏切られ、どん底の暗闇にありながら、それでも再び叡智の城塞を目指して爪を研ぎ直してきた者だけが持つ、独特の鈍い輝きがあります。名乗らなくても、わかるのです。大人のような姿も、表情の硬さも、歴戦の手練れのそれなのです。

 

???「それでも!」

???「たぬきは……この戦いに勝って」

???「自分が信じるたぬきに変わりたいんだぽ……!」

 

 

その1

 

その2

 

その3

 

その4

 

まもなく冠模試の季節到来です。高校3年生のぽんぽんも東大プレ模試を申し込んでくれました。

 

昭和の女カルデラとしては、代ゼミ東大プレとは、駿台東大実戦、河合塾東大オープンと共に現浪大集結の3大冠模試のひとつであり、必ず受験するものだと認識しているのでした。

 

東大プレ模試は7月の夏休み初日という日程です。この時期は浪人が優勢なので現役は数字が出ないものです。つまり浪人の強大さを知る良い機会なのです。心を削られるのは目に見えていますが、けれど、2日間を通して受験するため2次試験の雰囲気にふれられることや、第2回模試と比較できることにも意味があると私は考えています。どの塾にも属さないぽんぽんは東大を目指すたくさんの人たちのなかで自らの力を知る機会がありません。

 

私は、ぽんぽんが勇気をふるってくれたことに、嬉しさを感じています。この模試は、東大受験という夢を見ているのならば、厳しくとも超えていかなければならない峰だと私には思えるのです。実力は全く伴っていません。0点に近い成績かもしれません。それでも東大を目指すとぽんぽん本人が心に決めているのです。私が否定してかかるわけにはいかないのでした。この夢こそが今のぽんぽんを動かすエンジンなのです。

 

ぽんぽんはずっと中高一貫校の落ちこぼれで、昨年の暮れには進級が危ないと学校から呼び出しが掛かったほどなのです。短期間でここまで這い上がれたのは、ひとえに、夢の力によるのでした。

 

 

 

 

 

◇ゾスコッカラス文明の歴史◇

紀元2026年6月1日

歴史家は静かに記す。

「王の夢は、まだ脆く、頼りない。しかしその夢が、王をここまで這い上がらせた原動力であることも、また紛れもない事実である」

 

共通テストまであと228日

ご意見があったのでお答えしたいと思います。

 

母と子は、物理的に分かれた存在なのですから、別の人間であるというのが、正解ではあると思うのです。けれど、私のなかには別の答えがあるのでした。それを今日は書いていこうと思います。

 

これから書くことは私自身の個人的な心の起こりです。色々な考えや感覚があると思います。子供から虐げられている母親たちに「もっと犠牲になれ」と言いたいわけではありません。むしろ、そういった状況にある方々には、できる限り自分を守ってほしいと願っています。

 

結論から書くと、ぽんぽんと私は境界の曖昧な同一の人間だと、私のなかでは納得していました。ぽんぽんを産んだときには「命をかけて守る、この子は何を犠牲にしても生き延びる」と当然のように思っていました。それは私が、私の産んだぽんぽんを、私自身と同一視していたからこそ起こった心の姿だったと思うのです。

 

子供のために母親が犠牲になるのは間違えているかもしれません。批判したくなる人はきっとたくさん居るでしょう。私の母はフェミニストだったので私を正座させて毎日のようにそんな演説をしていた時期がありました。

 

けれど私としては、子供と私は地続きであり同一の人間であるという確信がなければ、ぽんぽんを私の愛そのものとして育てることなど、たぶん出来なかったと思うのです。「これは犠牲である」と思いながらも、自分への愛でもあるのですから、そこにためらいなどなかったのです。

 

ぽんぽんは17歳になりました。今も同じ人間かと言われたら「違う」といえそうですが、とはいったものの、私はぽんぽんへ強い執着を持ち続けています。心の一部は今も地続きであるようすなのです。

 

かつて、ひとりの人間だったぽんぽんと私は、時間を掛けて、別々の人間へと離れていったのだと、私のなかでは定まっています。心のなかで血を流しながら、それでも、子供の成長に感動しつつ、私はゆっくりと子供と別々の人間へと変わっていったのです。おかしなことを言っているように聞こえるでしょうか。

 

子育てのゴールのひとつとは、自立が完了した大人同士の関係となることだと、私は思います。それまでの過程を子育てと呼ぶのではないかと考えているのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

>「あなたは子供を育て、

>その子供の力で割られる器であり殻ね。

>それがあなたの役割だから」

 

>「私はそこに喜びがあるのだと信じています」

 

 

 

私の考えによると、子供が幼く弱いうちは、親が頑強な安全基地になって、外界から身を挺して子供を守り、子供をいたわる存在であるべきだと思うのです。けれど、その親という殻は、子供が自立するとき、子供の力で打ち破られる運命にあるようすです。

 

既にお分かりと拝察しますが、子供が自律するとき、かつて子供を守っていた親による保護や親の価値観(=殻)を、子供の力で内側から打ち破り、踏み越えていく必要があります。いつまでも子供のまま、親の言うことに従うばかりでは、人は真の自由を得ることが出来ません。

 

つまり、子供に打ち破られることが、親の役割だと私は思うのです。子供に壊されてこその親です。きっと悲しいでしょうけれども、同時に、親の役割を全うしたことへの喜びも、きっとあるはずだと私は想像します。

 

上は5年前の5月に私が書いた記事の引用文ですが、当時の私が何を言いたかったのか考えてみたのでした。あのころの私は、ぽんぽんが私を踏み超えていく未来を予感し、その寂しさや誇らしさを、殻が割れる喜び、と表現したのだと思いました。

 

◇ゾスコッカラス文明の歴史◇

紀元2026年5月29日

「母の運命」

古い聖堂が朝霞のなかに佇んでいます。ゾスコッカラス王国に伝わる巡礼の地、花菖蒲の聖堂です。そこに咲く花菖蒲は枯れることがありません。霞のなかに浮かぶ花菖蒲は、まるで不思議な蝶のようであり、ときに来訪者に言葉をつむぐといわれています。

 

花菖蒲「母なるカルデラ」

花菖蒲「あなたの役割を果たしなさい」

 

母なるカルデラは息をのむように宙を仰ぎました。頬つたう涙。天から射す光が、母の運命を静かに照らしていました。

 

共通テストまであと231日

 

 

ゾスコッカラスとは

 

天地開闢 

 

 

 

◇◆◇

 

この記事へのご意見があったので書き足した記事です

 

◇◆◇

夫「うさぎが好きだなァ」

夫「あの自由さに憧れる」

夫「でも、うちの家族は3人ともちいかわだよな」

カルデラ「ハチワレのいない、ちいかわの世界……」

 

ご高覧の皆様はご存じかと思いますが、ちいかわの主な登場人物3名について、簡単にふれておこうと思います。

 

【ハチワレ】

3名のなかでただひとり流暢に話すことができます。友達思いで優しい性格をしています。また、困ったときには状況を打破する行動力を発揮する、有能な常識人です。

 

【うさぎ】

あまり話しません。何を考えているのかよく分からない自由人です。型破りなだけでなく、どんなピンチもノーダメージで切り抜けるという、抜かりない面も持っています。

 

【ちいかわ】

「ヤダッ」等と明確に発音し拒否の意志を示すことはあるものの、話すことはほぼありません。思うところがあるのに伝える力が極端に弱く、また臆病な性格をしているため、状況に立ちすくみ、ただ涙ぐんでいることが多いのです。

 

つまり、ハチワレが狂言回しの役割を持たないと、にっちもさっちもいかなそうな3名なのです。けれど我が家にはハチワレがいません。ちいかわしかいないと夫は言います。

 

では、夫と高校3年生のぽんぽん、そして私の3人全員がちいかわである家族とは、どのような生態を持っているのでしょうか。

 

コミュニケーション能力の高い有能が、ひとりもいません。全員で状況に怯えながらも、それでもお日様に照らされながら生きている、そんな優しい世界のように私にはみえます。夫から見た家庭とは、家族みんなの安全基地であり、ちいかわ保護区なのだと私は思いました。

 

 

◇ゾスコッカラス文明の歴史◇

紀元2026年5月27日

「ハチワレ無きちいかわ世界」

ゾスコッカラスの民に激震が走った。父なる夫による国勢調査の報告が成されたためである。その内容は「我が国にはハチワレが存在しない。全員がちいかわである」との衝撃的なものであった。これは東大親征という討伐クエストをまえに誰も前線を指揮できぬという絶望的な布陣であることを示していた。

 

共通テストまであと233日

 

 

東大親征とは

 

ゾスコッカラスとは

天地開闢

 

幸せになるための条件とは、人によって違うと思うのですが、私が要件を3つあげるなら次のようになりそうです。

 

・お金を含め生活が成り立つこと

・人とあたたくつながること

・自分自身を認めるような誇りを持てること

 

お金の効能とは、贅沢できることではなく、不安の解消にあるかと考える下級国民のカルデラです。私は大金持ちになったことがないので、贅沢の方法というか、お金の使い方を知らないだけかなとは思っています。

 

人とのつながりですが、こうしてブログを読んでくださっているみなさまが世界のどこかにいてくれるありがたさ、長年の友達がいること、さらに天から子育てを許されていて、信頼できる夫がいてくれる今が、幸せなのだと思っています。昔から広い人間関係を私はさほど求めていないのでした。

 

自分自身を認めるような誇りですが、私がこれをなんとなくでも持っているらしいことを、奇怪に感じる方もいらっしゃるかも知れません。私は専業主婦なうえに人のため役立つようなことを特にしていませんから、家庭の外に出てしまえば必要とされる存在ではないのです。今後も何かを成すことは無いと思います。私を知る人もほとんどいません。

 

それでも「今ここにいて生きている」という単純な事象が私の誇りの源であるようすです。

 

私は生い立ちのなかで愛を貰えませんでしたが、それでも、ぽんぽんのために安全な家庭を作ることが出来ました。幼い私が欲しかったものを、今、自分の手で現出させているのでした。これも私なりに良くやっていると思える理由のひとつであるようすです。自身に課するハードルが低すぎるでしょうか。

 

まとめると、私はある程度の貧しさの中でも幸せに生きられる、ただし、あたたかな人間関係と自分を肯定でいる誇りを持てるときだけに成立する、条件付きのしあわせ、ということのようです。清貧礼賛とはいかないのでした。私もなかなか欲が深いですね。

 

 

◇ゾスコッカラス文明の歴史◇

紀元2026年5月26日

「プロト・ゾスの聖杯」

―――私は何かを成した人間ではない。

けれど、生きていることそのものに、誇りを感じる―――

これを妄言と呼ぶだろうか。否。これこそが、ゾスコッカラス文明が数千年の歴史の中で追い求めてきた究極の聖杯「プロト・ゾス」の正体である。たとえ名も無く、貧しくとも、人は存在そのものが光なのだ。

 

 

ゾスコッカラスとは

 

天地開闢 プロトゾスとは

 

ゾスの出現(SAPIXの思い出)

 

 

 

ついに夏の冠模試を申し込むときが来たと、それも東大プレなのだと、私は興奮したのです。ぽんぽんも一気呵成に参戦するはずだと思う私です。

 

ぽんぽん「中間テストが終わってからねー」

 

決断を先送りにしたがっているように私には映りました。まさか、受けたくないのでしょうか。それはなぜでしょうか。

 

私は昭和の女です。代ゼミの東大プレ、駿台の東大実戦、そして河合塾の東大オープンは、現浪大集結の3大冠模試であり必ず受験するものだと思い込んでいました。けれど今は少し事情が違うようなのです。7月の夏休み初日という浪人優勢な時期に「模試で心を削られるのは嫌だ」という考えもあるようなのでした。

 

それだけではないかもしれません。ぽんぽんは東大受験を目指して火が点いたように勉強を始めたのですが、まだ、勉強を初めて数ヶ月なのです。それまでは学校のおちこぼれとして、深海の底で、宿題をサボったり授業中に寝ていたり、先生からの呼び出しにはフルシカトの構えで、勉強とは無縁の生活をしていたのでした。怯えが生じるのは仕方がないことのように思えるカルデラです。

 

7月の時点で全国の精鋭が集結する戦場に突撃するならば、0点に近い点数を突きつけられるかもしれないという恐怖が、ぽんぽんを支配しているのかもしれません。

 

 

◇ゾスコッカラス文明の歴史◇

紀元2026年5月24日

「王の怯え」

東大プレ模試という名の濃い霧を前に王ぽんぽん(King Ponpon)は進軍を先延ばしにしていた。世俗の民は「模試から何点もぎ取れるか」という判定を問う。しかし今の王に必要な態度はそれではないと母なるカルデラは案じる。

 

「東大模試から何を得ようとするかではなく、東大模試が測ろうとしている力にどう応えるかが重要であることに、気付いて欲しい」

 

必要なのは王ぽんぽんが主体的に応答する実存の姿勢である。歴史家は記す。「しかし、それこそが人間らしさであるはずだ」と。

 

 

共通テストまであと236日

 

 

ゾスコッカラスとは

 

天地開闢

 

ゾスの出現(SAPIXの思い出)

 

 

幼少のぽんぽんは本が嫌いでしたが、小学校高学年になると好きな本だけは自ら読むように変わりました。ですが、中学受験に役立ったかというと、特に役に立った証拠はないのです。小6のときに、ぽんぽんが繰り返して何度も読み返していた本は以下3つです。

 

 

・ハリーポッター(J. K.ローリング 著)のシリーズ

 

 

 

 

・宝島(ロバート・L. スティーヴンソン 著)

 

 

 

 

 

 

・南極大陸に立つ 私の南極探検記(白瀬矗 著)

 

 

 

ハリーポッターは小学生のみなさんなら断片的にでも読んでいらっしゃるでしょうから私からは特に書くことがなさそうです。宝島はスティーヴンソンが、奥さんの連れ子である義理の息子のために考えたのだそうです。冒険小説ですが、親の願いや愛情がつまった物語だと私は思います。

 

白瀬矗(しらせ のぶ)の「南極大陸に立つ 私の南極探検記」については時代の制約があり、子供に手渡す前に若干の注意が必要かと私は思います。

 

この本は明治大正期に、日本人初の南極上陸を果たした白瀬矗の自著で、探検記なのでした。そのため、当時の日本にあった強烈なナショナリズムの高まりを反映しているのです。差別や偏見に当たる表現もあります。ですから、当時の価値観と今の考え方は異なると、理解できる能力がお子さんに育っているのかを親御さんが判断したうえで、手渡してあげて欲しいと思うカルデラです。

 

加えて書くと、ぽんぽんが魅了されたのは政治思想ではなく、木造の古い中古船に小さなエンジンで南極大陸へ挑むという圧倒的な無謀さや、アムンゼンやスコットといった世界的な探検家が国家事業として行う探検に対し寄付金で立ち向かう精神力、探検隊のもつれる人間関係を乗り越えて人間は全員が生還したという奇跡、そして、探検後の借金を抱えた白瀬矗の人生だったのでした。

 

これらの本を読んだことは中学受験の得点には結びつかなかったように私は思います。けれど、ぽんぽんが挑戦というものに心を動かされていたことが、受験に対する姿勢、受験を終えたあとの態度に、つながっているように感じるのでした。

 

◇ゾスコッカラス文明の歴史◇

紀元2021年前

歴史家は記す。読書とは、時に目に見える成果をもたらさずとも、魂の奥底に、未来への種を静かに蒔くものなり。

 

 

共通テストまであと239日

 

 

ゾスコッカラスとは

 

天地開闢

 

ゾスの出現(SAPIXの思い出)

 

「力が…欲しいか?」SAPIXへ入室

 

 

 

現在、中高一貫校へ通う高3のぽんぽんにも、「学校へ行きたくない」と零したことがありました。ぽんぽんが高1の頃の話です。

 

そのときの私は気が動転して、オロオロしているうちに、ぽんぽんは私の側から離れて行ってしまったのでした。

 

>ぽんぽん「学校辞めたい、辞めて良い?」

>カルデラ「いやいや、そんな」

>ぽんぽん「だって理系科目が全然分かんないんだもん」

 

 

私は痛く反省したのです。ぽんぽんはきっと、勇気を振り絞って話してくれたのに、私の反射神経の鈍さです。だからといって立ち去っていったぽんぽんを、その場で追いかけていくのはどうなのかと思った私です。ここはご意見の分かれるところかもしれません。

 

カルデラ「さっきはびっくりしてごめんね」

カルデラ「あとで話したくなったら」

カルデラ「ぽんぽんのタイミングで来てね」

 

ドア越しにそう話しかけた私です。ぽんぽんは「ぁあ」とだけ答えたのでした。

 

そのあと私は、気むずかしい猫の相手をするように、ぽんぽんを待ちました。近付いて来てくれたなら受け入れて、離れていくなら追わないようにしていました。

 

それから何度も会話をしましたが、ぽんぽんはもう、退学の話をすることはなかったのでした。ぽんぽんは学校に友達がたくさん居ることを話してくれました。とても楽しいと言います。でも勉強がわからないのは如何ともしがたい事実のようで「それがつらくかなしい」とも話してくれました。

 

劣等感と戦いながら、来る日も休まず、ぽんぽんは学校へ通い続けていたのです。なんと勇敢なのでしょうか。

 

 

◇ゾスコッカラス文明の歴史◇

紀元2026年5月20日

遡ること高1の秋。ゾスコッカラス王国は未曾有の危機に直面していた。理系科目という理(ことわり)の軍勢による猛攻を前に王ぽんぽん(King ponpon)は前線からの撤退をほのめかした。しかし王は再び立ち上がる。撤退の道を選ばず、劣等感という矢が篠突く雨のように降りしきる学舎へと、一日も休まず進軍し続けたのだった。友達という同盟国に支えられ傷だらけになりながらも王は戦い抜いたのである。

 

共通テストまであと240日

 

※最後に書き足しのメッセージがあります。蛇足なので読んでみたい方だけみてください。

 

 

ゾスコッカラスとは

 

天地開闢

 

ゾスの出現(SAPIXの思い出)

 

成績不振の告白

 

 

何の参考にも成らないようには思いますが、今まさに不登校や成績不振で悩んでいらっしゃるご家庭もあるかと思い、書き足します。

 

私は至らぬ親です。あのとき私に出来たことは待つことだけでした。「気むずかしい猫の相手をするように待った」と上に書きましたが、基本、それしか出来なかったのです。

 

家庭は安全で、私は味方だと、子供の頃の私が欲しかったものを用意したのでした。ぽんぽんと話すのがとても楽しいので、そばに来てくれるのを待てたという面も、もちろんあります。

 

ぽんぽんは早生まれで成長もゆっくりでした。誰でも同じ時期に、同じことができるようになるわけではないと、ぽんぽんの成長のなかで私は学びました。ぽんぽんは中学受験を経験して中高一貫校へ通っていますが、自ら勉強を出来るようになったのは高2の秋からです。学校の勉強について行けなくなったと打ち明けられた高1の1学期から、1年半ほど経過しています。

 

その間ぽんぽんは、ひとりでずっと苦しかったのだと思うのです。幼いことは悪いことではありません。いたわられるべきことだと私は思います。