今朝、JR東日本のリリースを読んでいたときに、今更ながら気付いた文言があります。

 

 

>お客さまからの投票を集約し、

>得票数が最も多いキャラクターを、

>Suica の新たなイメージキャラクターとして決定します。Suica、お客さまからの投票を集約し

https://www.jreast.co.jp/press/2026/20260908_ho01.pdf

 

 

どうやら得票数は参考値ではないようなのです。率直なところ、昭和の女カルデラの心には様々な思いが去来しました。

 

 

【平成のトラウマ 高輪ゲートウェイ駅】

総数64052票の応募があり、1位の高輪駅は8398票を集めました。けれど選ばれたのは高輪ゲートウェイ駅でした。36票だったそうです。高輪ゲートウェイに決まったと知った国民は、膝から崩れ落ち、天を仰ぎ声を上げ、慟哭したと伝えられています。

 

国民「投票を無視するなら、なぜ聴いた!」

国民「私たちの声を無視する理由を聞かせて欲しい」

 

JR東日本「聞いた、だが決めるとはいっていない」

JR東日本「私は知っている」

JR東日本「世論が最終的には受け入れることを」

 

 

【E電 昭和という時代 戦う意思】

総数59642票の応募があり、1位は民電で5311票だったそうです。けれど決まったのはE電でした。390票だったといいます。私は昭和の女です。あの頃の空気感は良く覚えています。E電なんて呼ぶ人は、テレビのなかにくらいしかいなかったのです。

 

児童カルデラ「私たちの投票が無視されたんだ!」

児童カルデラ「E電なんて言わない、言って良いわけがない」

児童カルデラ「JRは言い難いけどがんばろう」

 

 

日本人はこの40年で、何を失い、何を得たのでしょうか。E電を拒否した私たちと、高輪ゲートウェイを受け入れた私たち……私には分かりません、それでも、昭和の女カルデラには言わなければならないことがあります。

 

 

「飼い慣らされてんなよ……!」

 

 

 

 

 

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18世紀以降の苛烈な資本主義(フランダースの犬やロミオの青い空の世界ですね)から現代のような社会へ変わった背景には、資本家が譲歩を繰り返してきた、という事実が存在します。ここにAI時代を生きる私たち民草(たみくさ)の勝機をみる経済ド素人の専業主婦カルデラです。

———

 

 

知的労働は急激に人間からAIに取って代わられ、一般的なホワイトカラーも同じくAIに代替されていきそうです。

 

 

 

 

人間にとってかわったAIが成した富は、資本家や企業のものだ、と考える人は大勢いそうです。ぽんぽん(ブログ主の子供で高校男子)の考えでもそうですが、企業は国家ではないので、生み出した利益を国民に還元する理由がない、といった主張です。資本主義は終わらないという立場です。

 

 

 

 

ここで18世紀以降の苛烈な資本主義に目を向けてみると、当時の人々が、大きな格差の中で虐げられていたことがわかります。けれど、時代は変化していきます。資本家が繰り返し譲歩し、利益を民に分配する形で変わっていったのです。

 

このスキームは、私たち民草が迎えるであろうAI時代にも使えるはずだと思うカルデラです。私は経済学者ではありませんから、あまり考えずに話を進めていこうと思います。

 

・労働運動の高まりと、共産主義革命が起こった

・フォード主義というアメリカの資本主義が興った

 

資本家だって人間ですから、革命を起こされ、血祭りに上げられるのは嫌だったはずです。そこまでして欲しいお金なんてあるはずがありません。労働者に譲歩するしかなかったのだと思います。

 

フォード主義については、ご高覧のみなさまがご存じのとおり、ヘンリーフォードが「労働者は顧客でもある」と気付いたことを指します。資本家が持続的に儲け続けるため、労働者の生活をないがしろにしなかったのでした。

 

日本の場合はここで問題があります。日本人の気質なのかもしれませんが自己主張が弱いのです。

 

労働争議などは、苦手というか、怖がっているようにすら見えます。デモがあるならば背後にあるのはどういった素性の組織かをまず考えるのが日本人というものです。

 

これが欧米の人たちならば「でもそんなの関係ねェ!」とばかりに、呉越同舟だろうが背後関係がどうであろうが、ビッグウェーブを祭っているはずです。

 

日本で資本家のほうがフォード主義的な考えを持つことは可能でしょうけれど、資本家と戦うとなると、私たちがよく知るとおり、ネットに籠もって、動画を作ってお笑い込みで大人しく主張したり、掲示板に何かを書いてひと仕事した気分になっているのが通常運行なのでした。

 

私の思うところですが、この気質は根が深くて、江戸時代には顕著にあったように見えるのです。

 

江戸時代にあった反乱の総大将というと、大塩平八郎や、島原の乱の天草四郎がすぐに思い浮かぶと思います。けれど、ひとりのヒーローを頂いて戦うばかりが日本人ではありませんでした。そうです、一揆と言えば、傘連判状の存在です。

 

圧政の下で、もはや生きることが出来ないとなれば、一揆を起こして嘆願を行い、その責任は傘連判状に残したとおり、みなが連帯して負ったのでした。これこそが日本人のマインドかと思うカルデラです。

 

教科書に載っていた、あの傘連判状(からかされんぱんじょう)の画像をみて、目頭が熱くならなかった人は居ないと私は信じています。

 

けれど、何故こんなに控えめなのかという疑問が残るかと思います。その鍵は「お上」という存在にあると私は考えています。

 

 

つづく

カルデラは9年も受験ブログを書いている。

 

9年というのは、案外と長い時間だ。

お財布なら何度か買い替わっているし、

洗濯機だって一度は怪しい音を立てるようになる。

 

子供は小学校低学年の中学受験生だった。

今は高校3年生だ。

 

河合塾の第2回全統模試の結果は、たぶん、もう出ている。

でも、私は知らない。

ぽんぽん(ブログ主の子供で高校男子)も言わない。

聞けば教えてくれるのかもしれない。

あるいは教えてくれないのかもしれない。

 

その違いについて、以前ほど興味が持てなくなっている。

 

不思議なことだ。

中学受験時の私であれば、

偏差値や判定の数字を宝探しみたいに追いかけていただろう。

 

今はそうでもない。

数字は数字だ。

 

良ければ嬉しいし悪ければ残念だ。

それだけの話だ。

 

最近、人生には

模試の判定より大きな出来事があるらしいと知った。

 

今さら。

 

ずいぶん遅い発見である。

それでも発見は発見だ。

 

窓の外では秋の風が吹いている。

東大は相変わらず難しい。

 

人類の未来については、ずいぶん考えた。

AIによる支配についても考えた。

民主主義の終焉についても考えた。

資本主義共産主義のその先についても考えた。

 

しかし今のところ、

私が解明できていない最大の謎は、

模試の結果をぽんぽんが教えてくれない理由である。

 

夕方になればお腹は減るし、

親は子供のことを少し心配する。

そして子供は大事なことをなかなか話さない。

 

そういうところは何千年経っても変わらない気がする。

やれやれ。

人類というのは案外そういうものなのだろう。

 

 

 

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ぽんぽん(ブログ主の子供で高校男子)、曰わく

「資本主義は続くが、民主主義(選挙や自己決定)のほうが先に限界を迎えるのではないか」

————

 

AIという強力な生産手段を人間の代わりに手に入れた資本家は、利益を国民に渡すことなくますます肥大化し、企業をもって利益を生み出し続けるだろうとぽんぽんは言います。つまり、資本主義は終わらないという立場をぽんぽんは取っているのでした。

 

 

また、民主主義が機能しなくなるのではないかとも、ぽんぽんは言っています。強いAIを一部の資本家やエリートが占有すると、世論の誘導どころか社会の完璧な管理が出来てしまうのではないか、と恐れているのでした。

 

例えば、選挙という形は残っていても、実質は資本家やエリートの意図通りに人々が誘導され、人間が自分で選んでいると思わされているだけという、ディストピアすぎる未来予想図を語るぽんぽんでした。

 

私は反論したくなりました。日本国憲法とは、人間が人間らしく生きるためのルール、と翻訳できるのではないかと考えているカルデラです。国民の生命や文化的な生活を守る責任などが日本国にあると定めているのでした。つまり、AIの時代がきても、この前提があれば国民を無視した暴走はできないはずだ、と主張したのでした。

 

ぽんぽん「甘いです」

ぽんぽん「目先の利益に選挙は弱いし」

ぽんぽん「人間がポピュリズムに流されやすいのは」

ぽんぽん「歴史が証明しています」

 

カルデラ「それでも」

カルデラ「自分で決めていくのが人間の矜恃です」

 

私は氷河期世代です。無駄に長く生きており、ポピュリズムの片鱗を見てきた過去があります。政治が間違うことだって過去にはたくさんありました。それでも人間は、自分で選び、間違えたらやり直すことができると信じること、これが人間の主体性を担保していくはずだとしっています。ですから、自己決定することの尊さを、人間のなかで伝えていくことが重要な意味を持っていくのではないかと私は話しました。

 

ぽんぽん「そんなもの」

ぽんぽん「AIの強さの前では塵も同然」

 

であるならば、私たち人間は、ディストピアを迎えた先にある、次の一手を考えておくべきかもしれません。

 

 

 

【カルデラの考えるディストピアを生きる人類の掟】

 

ひとつ/可能であれば子を成し遺伝子をつなげること/

 

ふたつ/人間の共同体を維持すること/

 

みっつ/その上でAIが消滅するかもしれない未来において再び誇り高く生きる局面を狙うこと/

 

 

 

AIが消滅するというのは、ベテルギウスの爆発かも知れないし、テクノロジーの黄昏からの自己崩壊かもしれません。状況に流されているだけという点でかなり追い込まれている感じはしますね。

 

古人類が現れたのは少なくとも700万年前といわれています。気候変動や疫病を超えて、ずっと命をつないできたのです。私たち人類のしぶとさをナメてもらっては困ります。

 

……って、なにをいってるんでしょうね、私は。

 

 

◆ まとめ ◆

 

AIによるディストピアとか上等です。私たち人類はネアンデルタール人と競争したし、マンモスとも戦ったし、天然痘とだって戦ったのです。

 

次はAIというだけの話でしょう。

 

我々はしつこいのです。

人間は自分自身がやがて死ぬことを知っている生き物です。そのときがくれば、思考も記憶も感情も、みな失われます。私という人間が生きた記憶だって、二代残れば上出来です。だから人は永遠を想うのです。

 

大きな流れを語ると、「何かを残したい」という願いは、人類を前進させてきた力のひとつかと私は思えます。私も、誰であっても、過去を生きたひとりひとりの、よろこびやかなしみ、切ない願いの上に立って生きているのです。人類の歴史を作ってきたのは、成功者による勝利の軌跡ばかりではない、と思いたいカルデラです。顔も名前も忘れ去られた無数の人々の、失敗や涙、果たされなかった願い、心の痛みの上に立つものでもあるはずです。

 

人は何のために生きるのか、何を次代へ渡せるのか、つまり、私の人生は誰のものなのか、そういう問いを己に立ててみると、その答えは「私を覚えていて」ではなくて「私を踏み台して、その先へ行け」といった願いのなかにあるようです。

 

 

私の人生は私のものです。たぶん、私の命も私のものです。けれど、それだけでは不足です。永遠に続く何かとは、あの日、路上のオッサンが「あなたの人生はあなたのものだ」と、子供だった私に残したミームのように、人間の心をつなぎながら残っていくものではないでしょうか。そして私もまた、未来へつながってくひとつの灯りであると、自分自身の役割を思うカルデラでした。

カルデラ「資本主義は終焉を迎える」

=話は聞いた!世界は滅亡する!

 

ご高覧の皆様には、ぽんぽん(ブログ主の子供)がそうであるように、カルデラの言い分が、ただの陰謀論にしか聞こえない方も多かろうと拝察います。ちょうど上に書いたような捉えられ方かと思い致すカルデラです。しくしく。

 

今日初めて、このブログを読んだ方もいらっしゃると思うので、簡単に説明します。お受験ブログでありながら突如としてブログ主が資本主義の終焉を唱えたことにより、読者の方から「陰謀論にはまっているのでは?」ガチ目に心配されているという現在地にあります。

 

 

↓がご心配をおかけている記事です。

 

 

↑の記事を書いた顛末が↓です。私の立場を補強するために権威の傘を利用するという醜態を晒しています。情けないですね。

 

 

マルクスは、大英博物館の図書館で長い年月のあいだ研究を続けた人でした。例え話ですが、区立図書館には日中から何かを調べつつ書き物をしているシルバーの方がたくさんいらっしゃいますけれど、外観としては、似たような雰囲気だったのかも知れません。マルクスは亡命者でしたから、当時のイギリス人から見れば「暇そうな外人が、図書館に通い詰めて、なんか書いているなァ?」くらいに思われていたのではないでしょうか。

 

やがて研究を実らせたマルクスは資本論を唱えます。けれど生前のうちは十分に理解されなかったのです。

 

同じ時代を生きたダーウィンに、熱い手紙と自著のサイン本を贈ったのに、軽くあしらわれるというかなしい出来事だってありました。経済的にも苦しい生活を強いられていたのです。

 

けれどマルクスには、エンゲルスという、堅固な理解者であり、生涯の親友、支援者がいました。エンゲルスの支援がいなければ、マルクス家の生活は、おそらくは成り立たなかったのです。

 

マルクスは1883年3月14日、ロンドンの自宅で亡くなりました。64歳でした。エンゲルスによるとマルクスは安楽椅子で静かに眠りについたと言います。葬儀の参列者はエンゲルスを含め家族や友人など12名ほどだったと記録されているそうです。当時の新聞もほとんど報じず、社会的には、あまり注目されない死でした。

 

寂しい、悔しい気持ち、そのやり切れなさ、痛み、叫び出したいような思いが、心に響いてきます。私はマルクスのような偉人ではありませんが、それでも伝わらない切なさの欠片を味わったような夜でした。

 

記事の反応に一喜一憂し、権威にすがろうとした情けない自分自身を発見したりもしましたが、それでも私は自分の言葉を紡いだことに後悔はありません。

 

専業主婦1匹、地位や名誉、知識までもがなくとも、私にはささやかな日常があり、考え続ける心があります。私はこの小さな世界を生きていきます。命があるのだから、大丈夫です。

ぽんぽん「新しい思想で世界を変えたい」

 

カルデラ「そういうことならば」

カルデラ「資本主義の次ぎを考えついて布教すれば」

カルデラ「天下を取れると思いますよ?」

ぽんぽん「は?」

カルデラ「歴史に名を残すこと間違いなし」

 

カルデラ「今この時代は」

カルデラ「資本主義が限界を迎えつつある」

カルデラ「ような雰囲気に、私には見えるんですよぉ」

ぽんぽん「ちょっと何言ってるのか分かりません」

 

ぽんぽん「そんなもん」

ぽんぽん「終わる訳がないです」

 

ぽんぽん(ブログ主の子供で高校生男子)と、こんな会話をした母カルデラです。子供からはまるで相手にされませんでした。

 

けれど私は考え続けました。布団のなかでもトロトロと考え続けていました。そして書き上げたのが下の記事でした。

 

 

あのときの私は、世界の覇権を狙う、野心家のまなざしをしていたと思います。ふわふわと生きる専業主婦カルデラの中にも、こんなにたぎるものが在ったのだと熱い高揚感に包まれながら、布団のなかで丸くなっていたのです。

 

カルデラ(勝った、圧倒的に勝った)

カルデラ(これで資本主義の次ぎに手が届く……!)

カルデラ(21世紀に舞い降りた下町のマルクスは私だ)

 

そんな思いに浸りながら、泥のように眠り落ちるカルデラでした。ブログにまとめ上げた後は、なんだか満足してしまって忘れていたのですが、さきほどYouTubeなどで、資本主義の次ぎに来たるべきシステムについての情報を探ってみたのです。

 

したらば、偉い先生たちが、既に百周以上語っている事柄と概ね同じでした。笑えます。

 

……少し考えたら辿り着く内容ではあったんです。

でも、夢よ、ありがとう。

僅かな間でしたが楽しかったです。

 

 

【偉い先生が資本主義のつぎを語る図 その1】

しかも私の記事よりずっと分かりやすいときたものです

 

 

【偉い先生が資本主義の次ぎを語る図 その2】

 

 

 

―――

私は弱い人間です。生活能力は低く、対人的にも非常に弱く、社会的には総じて劣位にあります。論理武装もしないで自分の考えを晒すほどの頭弱です。けれど、それらを引き受けた上で、それでも生きて、明日も書くのが私の矜恃であるようです。今日はそういう話をしようと思います。

―――

 

最初に明確にしておきますが、今日は私という人間の話なので、強者の人生論にはなりようがありません。強く生きていくと決めているみなさまには物足りない内容かと拝察します。

 

若い頃の私は、優れていなければ、人から受け入れられないし、愛されない素材の人間だと自認していました。けれど、私はたいした人間ではありません。困りましたね。ただ、それらは相互にあまり関係のない事柄らしいと20歳くらいで気付きました。

 

そのあとは、人からどう思われるかはともかく、自分を認めたい、何かひとつでも自分を認められるような何かが欲しいと、欲するように変わっていきました。

 

ここで大変都合の良いことに、物事にはさまざまな評価軸があるじゃないですか。これは使えると若カルデラは思いついたんですね。

 

「カルデラが勝てるゲームを探せば良い!」これです。精神的勝利、部分的な勝利、そして転進、ここに活路を求めました。

 

けれど、だからといって、私の弱さが消えるわけではありません。あいかわらず私は弱く、頭弱で、心も折れやすかったのです。

 

それでも、弱くあっても、人から受け入れられるし愛されると、長じた私は人生のなかで学んでいました。友や夫の存在です。育成家族から脱出する力を蓄えたことも理由であると思います。

 

私は強くあろうとするのを辞めたように思います。弱者上等の精神です。

 

弱者が明日も生き残っていくためのポイントですが、カルデラは、「弱いままでも案外と人生は続く」という森羅万象を司る宇宙の原則を唱えたいと思います。

 

例えばあるひとつの人間の集団が無理だったとしても、その外には意外と居場所があったりしますし、思いのほか人は人を助けたがっていたりもするものです。ただし悪意の人が擬態してることが良くあるのが怖いところではあります。

 

なにはともあれ、誰かに助けを求めて守られながら、ときには私も誰かを助けて、心を通わせ、おだやかに生きていくことが、強くなれなかった私なりに辿りついた生きていく方法なのでした。

―――

人間は労働することにより価値を生み出すという、資本主義や共産主義での前提が、崩壊しようとしているようすです。ならばその先にある未来とはどのようなものになるでしょうか?

―――

 

私の思いとして、人間社会は、個人という人間のために在ってほしいんですよ。社会の目的は、国家を強くすることでも、企業を大きくすることでもなく、私たちが人間らしく心と肉体を守られながら、生きられることではないかと私は思います。

 

理想に走りすぎといわれそうですね。けれど100年前の人たちから見たら、労働基本法に守られた現代の日本なんて、夢の世界としか言いようがないのではないでしょうか。私がぽんぽん(ブログ主の子供)を産んだのは平成でしたが、当時は父親が育休を取ることは、ほぼほぼなかったのです。制度としては存在していたようですが、社会に実装されていませんでした。

 

社会とは保守的に見えて案外と変わっていくもののようです。さまざまな要素で綱引きをしながら、ときに後戻りしつつも、より良い世界に変化するものだと私にはみえるのでした。

 

労働することで人間は価値を持つ、という社会が変わることは、既に既定路線に違いないと私は考えています。

 

これから数年のうちにAIへの知的労働の代替が進むはずです。知的労働をする人間の仕事はAIに取って代わられ、一般的なホワイトカラーもAIに代替されるのではないでしょうか。結果として所得格差が広がっていくように想像します。

 

国民が消費する財力を喪失すれば、企業だって困ります。また自力で生活できない国民が増えれば国家も不安定になるはずです。さすれば国家も企業も対応を迫られるに違いありません。変化はきっと訪れます(迫真

 

人間にだけ出来ることはなんでしょうか。子供を産むこと、人を支えること、つまり人間社会という共同体の維持かと私は考えました。

 

話を戻します。資本主義共産主義の次ぎに来るシステムです。人間ではなくAIによって生産創造された富を、どのように分配するか?というシステムになるのではないかと想像してみました。公共の福祉という面から言えば、AIにより作り出された八百万をどのように共有するか、とも言えそうです。

 

新しいシステムのなかで指す豊かな社会とは、GDP等が高い社会ではなく、失業率が低い社会でもない、となりそうに思う専業主婦カルデラでした。

 

まだ見えない未来を空想するのは楽しいことだと思う私です。「よくわかんないよねェ」と日々の暮らしのなかで言いながら、でも、気付いたら世界は変わっているものだと考えているのでした。

 

 

 

八重洲地下街 12:15

 

秋のやわらかな陽光が差し込む白金台のテラスで、

私は昼下がりのシャンパンを傾けているはずだった。

 

しかし、

12時半の私が立っていたのは、

黄色い看板が眩しく輝く豚山の行列だった。

 

理由は単純だ。

心がハイカロリーな混沌を欲していたからだ。

 

八重洲地下街。

地上のオフィスビル群から

ビジネスパーソンたちが吸い込まれていく地下迷宮。

丸の内の洗練とも、

銀座の格調とも異なる、

圧倒的な熱気がそこには漂っていた。

 

東京にはふたつの人種がある。

豚山のコールを知る者と、知らぬ者だ。

 

その日、私は後者だった。

もちろん券売機の存在は知っている。

並び方も知っている。

ラーメンを注文するという行為そのものも知っている。

しかし、それだけでは足りなかった。

 

店内には不思議な秩序が流れていた。

 

麺は125→250g→375g。

等差数列だった。

 

チャーシューの枚数もまた、2枚→5枚→8枚。

やはり、等差数列である。

 

私は感動した。

人類はピラミッドを建て、

微積分を発見し、

そしてこの東京において豚山に達したのである。

 

店員は無駄な言葉を発しない。

客も無駄な言葉を発しない。

 

みなが知っているのである。

コール。

つまり、何を言うべきかを。

 

それが豚山という文明の姿なのだった。

 

やがて、時は訪れた。

 

「ニンニク入れますか?」

 

これは儀式である。

 

ところが私は動揺した。

そして、言ってしまった。

 

「いれないですぅ」

 

その瞬間、破滅の音が響いた。

23区の洗練も、昭和のプライドも、

その一言ですべてが霧散した。

 

もちろん私はすぐに言い直した。

「そのままで」

 

しかし歴史にやりなおしは存在しない。

存在するのは過去だけである。

 

その時、

隣席から声が聞こえた。

知らないサラリーマンであった。

彼は小さく呟いた。

 

「やっちまったな!」

 

私は理解した。

この男は私を責めているのではない。

目撃していたのである。

豚山という文明と異邦人の接触事故を。

それは、

文明のルールを知らぬ愚かな女に対する、

哀悼の意だった。

 

東京には様々な共同体がある。

銀座には銀座の流儀があり、麻布には麻布の流儀がある。

 

そして豚山には豚山の流儀がある。

 

人は自分の知る世界では自然に振る舞える。

しかし一歩外へ出れば、突如として言語を失う。

 

私はラーメンをいただく。

等差数列によって構築された秩序の中で。

規則性に守られた文明のなかで。

 

ニンニクの無いスープを飲みながら私は思った。

文明は思ったより様々である。

そして東京は、

まだまだ知らないことだらけなのだ。