静岡旅一日目の午後は、臨済宗方広寺派の大本山“方広寺(ほうこうじ)”(静岡県浜松市)を訪ねました。方広寺というと徳川幕府と豊臣家との間に起きた“大坂の陣”の発端の一つにもなった“方広寺鐘銘(しょうめい)問題”が思い浮かびますが、その方広寺は京都市東山区にある天台宗の寺院なので別のお寺さんになります。

 

 浜松の方広寺は、“遠州の奥座敷”とも呼ばれる奥浜名湖エリアでも最北に位置し、“浜名湖湖北五山”の一つにも数えられる古刹です。参道入口には「奥山半僧坊大権現」と書かれた大鳥居があるのですがそこは車で通過して、こちらの通称“黒門”と呼ばれる“総門”から境内に入ります。

 

 黒門右手の拝観受付でいただいた地図を見ると境内はとても広く、わたしたちの足で奥之院(地図左上)まで行けるかわかりませんが、

 

 ひとまず大本堂を目指して歩きはじめます。

 

 参道左手の池の端には“弁天堂”があり、赤い欄干の太鼓橋を渡っていくと、

 

 出世開運・金運の御利益がいただける“出世弁財天”が祀られています。境内入口からもうすでに神仏習合ですね。

 

 その先には二階建ての優美な“山門”。

 

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 美しい朱塗りの山門は、“黒門”と呼ばれる総門に対して“赤門”といわれ、美しさの中にも大本山の表門としての風格も兼ね備えているように思います。

 

 渓流沿いの参道のあちらこちらに羅漢(らかん)さんが点在し、

 

 ゆるゆると歩くわたしたちを優しく見守ってくださいます。

 

 参道の両脇には“方広寺十聖境”と題する立看板があり、歩きながら移りゆく景観を楽しむ“十景”みたいな感じになっています。たとえばここは第四の“抱腹巌(ほうふくがん)”。「苔むす岩の肌波が盛り上がり、恰(あたか)も布袋(ほてい)のはらあての如し」と書かれています。何気ない岩肌も、そう言われてみるとそのように見えてきますよね。

 

 十景第五の“貝葉谿(ばいようけい)”は「貝葉(経文)を擬した一枚橋を渡れば威儀正しい羅漢尊者(らかんそんじゃ)の聖域」となっています。たしかになるほどと頷けるし、ひとつひとつのネーミングもおもしろいです。

 

 しばらく行くと道は二手に分かれ、左が表参道です。

 

 大勢の羅漢さんの並ぶ参道は“哲学の道”。哲学の道といえば京都大学教授の西田幾太郎氏が毎朝思索にふけりながら歩いたという京都の銀閣寺と南禅寺を結ぶ小道が思い浮かびますが、それに因んでつけられた禅哲学の道だそうです。

 

 覆屋(おおいや)に守られているのは大木の切り株で、

 

 1881(明治14)年の奥山大火で被災し、幹の中が炭化するも再生し130年以上生き続けたことから“延命半僧杉”と呼ばれ、パワースポットになっているそうです。

 

 山肌に一堂に会する五百羅漢さんラブラブ

 

 おや、お寺さんの境内ですがここにも立派な両部鳥居が建っています。日本はもともと神仏習合でしたので特段不思議ではありませんが、この後伽藍を巡りながらその理由が少しずつ判明しました。

 

 それは参道入口の“半僧坊大権現(はんそうぼうだいごんげん)”に由来します。半僧坊大権現とは方広寺の鎮守の神さまで、寺伝によると開祖の無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)が、中国の元から帰国する際に東シナ海で台風に遭い難儀していたところ、法衣を纏った背の高い異人が現れて船を守護し、無事に日本へ送り届けてくれたそうです。

 

 その後無文元選禅師が方広寺を開祖なされたときにその異人が再び現れて弟子となり、熱心に修行を積みますが、禅師が亡くなられるとまたどこへともなく姿を消したそうです。“半僧坊”とは「半分僧侶のようであって、半分僧侶のようでない」という意味で、その異人の風貌を見た禅師によって名づけられ、開祖をお守りしたことから後年“奥山半僧坊大権現”として祀られるようになったそうです。

 

 つまり境内に鎮守の神さまを祀る堂宇があるので、参道にも鳥居があったというわけですね。さて十景の第七は“龍偃杉(りょうえんすぎ)”です。

 

 これは“椎河(しいが)龍王”を祀るお堂の足下に聳える杉の大木のことをいい、看板には「俗称大蛇杉、根元は大蛇が偃(ふせる)が如し」と書かれています。この龍神さまも行脚(あんぎゃ)途中の無文元選禅師の川渡りを手伝い、後日禅師の徳により、五百年来縛られてきた蛇身から脱することができたそうです。

 

 上り坂の向こうに屋根つきの赤い橋が見えてきて、

 

 ようやく本堂らしい建物が望めます。黒門からここまで、寄り道しながらゆっくり歩いて20分足らず。もう少しかなはてなマーク

 

 遠望していた赤い橋が、十景第八の“亀背橋(きはいきょう)”。橋の形状からそう名づけられたそうです。この橋を渡って本堂へ向かうのですが、

 

 先に少し離れた“三重塔”に行くことにして、道を左に折れます。

 

 案内板によるとこの美しい三重塔は1923(大正12)年、方広寺第二代管長間宮英宗(まみやえいじゅう)老師が発願なされ、京都の実業家山口玄洞(げんどう)氏の寄進により建立されたものだそうです。

 

 山口玄洞氏は第一次大戦中、家業の繊維問屋で財を成しますが、間宮管長の進言により好景気の内に商売を手控えたところ、戦後の倒産が相次ぐ中でも管長のおかげで難を免れ、家業はその後ますます発展したそうです。そのことに因んでこの三重塔は「倒産よけの塔」と呼ばれ、財界人の信仰が篤いそうです。

 

 三重塔の帰路に、亀背橋(きはいきょう)と本堂エリアが一望できました。

 

 亀背橋へ戻る途中の山腹に建つ“七尊菩薩堂(しちそんぼさつどう)”の拝殿。七尊菩薩を合祀する菩薩堂そのものはこの奥にあるようで、1401(応永8)年の棟札(むなふだ)が現存することから、静岡県内最古の木造建築とされているそうです。

 

 深い渓谷に架かる亀背橋を横から。

 

 さっそく渡ります。

 

 橋の途中から伽藍を望む。

 

 渡り切った正面には築地塀(ついじべい)に囲まれた重厚な“勅使門(ちょくしもん)”があります。地図を見るとこの奥に“開山堂”があるので、その表門だと思われます。

 

 勅使門の前にとても変わった石像が・・・。

 

 手水舎(てみずしゃ)で御手水をとろうと行ってみると、

 

 水盤に涼し気な演出がされていました。

 

 そして勅使門の左手奥には、方広寺の鎮守の神である半僧坊大権現を祀る“半僧坊真殿(はんそうぼうしんでん)”があります。半僧坊大権現は先に述べた方広寺の守護神なのでここは神社なのですが“神殿”ではなく“真殿”と表記され、またパンフレットの表紙には「大本山方広寺半僧坊総本殿」と書かれているのも興味深いです。

 

 半僧坊真殿の拝殿は正面に千鳥破風(ちどりはふ)と向拝軒唐破風(こうはいのきからはふ)を持つ華やかな造りで、  

 

 深い軒向拝(のきこうはい)には上り龍と下り龍のみごとな彫刻が施され、

 

 今にも動き出さんばかりの迫力を感じます。

 

 拝殿内は写真撮影不可なのでゆっくりとお詣りをしてから

 

 社殿左手から“奥之院道”に入ります。

 

 ここから奥之院へは片道10~15分ほどの山道らしく、渡り廊下の下に登山用の木の杖が用意されていたので、ありがたくお借りして出発します。

 

 方広寺十景最後の第十は“霊仙洞(れいせんどう)”。この奥に仙人の住まう洞(ほこら)があったようです。

 

 早速いかにも奥之院道らしい狭く険しい山道になり、

 

 奥之院橋を過ぎると

 

 杖を借りて来てよかった~と思うほどの急坂がつづきます。

 

 でも森の中の道は下界の暑さが嘘のように涼しくて、

 

 すれ違うひともないので

 

 マイペースでえっちらおっちら上れるのがありがたいビックリマーク

 

 おっ目ビックリマーク。もしかして崖の上のあれが・・・

 

 目指す“半僧坊奥之院”でしょうか!?

 

 もっと難儀するかと思ったのですが、ありがたいことに半僧坊真殿から約10分でたどり着きました。半僧坊真殿といいこの奥之院といい、方広寺というお寺の中で鎮守の神さまがいかに大切に信仰されてきたかを目の当たりにする思いです。

 

 下り道は膝にきますがとんとん下って

 

 ようやく方広寺の“大本堂”前に下りてきました。

 

 腰袴(こしばかま)の美しい“鐘楼”と松、そして羅漢さんたち。

 

 大本堂の中央に掛かる扁額(へんがく)の“深奥山(じんのうさん)”は方広寺の山号です。額の揮毫(きごう)は幕末の志士であり書の達人と謳われた山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)によるものだそうです。黒門からここまで、そして奥之院を歩いて来たので、山号の意味がよくわかります。

 

 大本山方広寺の大本堂も外からお参りするだけでなく、大庫裡(おおくり)より中に入り、外陣(げじん)から直接御本尊を拝することができるそうです。方広寺も一度は来たいと思っていたお寺さんなので、ようやく念願が叶いそうです。(後編につづく)

 

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