連日の猛暑あせるにこころも身体も少々萎えて、すっかり日を過ごしておりました。皆さまお変わりなくいらっしゃいますでしょうか。こんなところで申し上げることではないのですが、最近の暑さは確かに度を越していると感じます。あまりにも暑いと脳も思考を停止するのか、やる気や根気まで根こそぎ持って行かれる気分です。この先の本格的な夏を思うと憂鬱にもなりますが、それでも何とか凌いで生きてゆかねばなりません。どうぞ皆さまも日々を恙無くお過ごしくださいますよう祈り上げます。

 

 さて、白川郷と飛騨高山を巡る旅の二日目です。高山陣屋の見学のあとは、高山のメインストリート“古い町並”の東側高台に立ち並ぶ寺社仏閣を巡ります。この辺りは戦国時代に飛騨国を平定し、のちに初代高山藩主となった武将金森長近(かなもりながちか)が城下町を整備するとき、城の東側に連なる山裾を京都の東山に見立て、いくつもの寺社を建立したり移築するなどしたことから、通称“東山寺町(ひがしやまてらまち)”と呼ばれるそうです。

 

 高山城の堀の役目を果たしていたという江名子川(えなこがわ)。今も往時の面影を偲ばせる風情ある流れです。

 

 真宗大谷派の“蓮乗寺(れんじょうじ)”。

 

 ガイドマップによると、東山寺町に点在する寺社仏閣を結ぶ“東山遊歩道”が整備されているので、案内看板に従ってここから入ります。

 

 石段を上ると、

 

 左手に曹洞宗の“久昌寺(きゅうしょうじ)”、

 

 正面が同じく曹洞宗“雲龍寺(うんりゅうじ)”の山門で、久昌寺は雲龍寺の塔頭(たっちゅう)寺院だそうです。塔頭とはもともと禅宗における高僧の墓のことで、弟子たちがそのそばに小庵を建て墓守していたのが、後に寺として独立したものです。

 

 案内板によると雲龍寺の創建は720(養老2)年ととても古く、その後無住となり衰退しますが1395(応永2)年頃曹洞宗に改めて再建され、今の寺は金森長近が本能寺の変において19歳で戦死した長子・長則の菩提を弔うために修営したものだそうです。

 

 山門は二階に梵鐘を吊るした鐘楼門(しょうろうもん)です。

 

 屋根の形状が美しい“烏枢沙摩明王堂(うすさまみょうおうどう)”。烈火をもって不浄を浄化するところから、火の神・厠(かわや)の神として信仰されています。

 

 雲龍寺の境内を出ると、すぐ左手に“東山白山神社(ひがしやまはくさんじんじゃ)”の大きな一の鳥居が現れます。

 

 二の鳥居をくぐり、

 

 見上げるばかりの杉の大木に囲まれた参道をすすむと、

 

 左手に手水舎(てみずしゃ)、

 

 そして正面に拝殿があります。社伝によると718(養老2)年の創建時はここから少し離れたところにあったそうですが、金森長近の城下町形成にあたり現在地に奉遷(ほうせん)されたそうです。御祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉册尊(いざなみのみこと)、菊理媛命(くくりひめのみこと)の三柱です。

 

 御神木の“夫婦杉”。

 

 拝殿から斜め後ろに連なるのは幣殿(へいでん)と本殿でしょうかはてなマーク。案内板には拝殿の表示しかなく、詳細がわかりませんでした。

 

 拝殿前からの戻り道。こうして参道を歩く時間がわたしは一番好きですラブラブ

 

 東山白山神社の一の鳥居を出ると、すぐそこが“大雄寺(だいおうじ)”の裏門です。ほんとうはきちんと山門から入らなければならないのですが、今日のところは東山遊歩道歩きを優先し、失礼して裏門から入らせていただきます。

 

 とても広い境内は塵ひとつ草一本もないほど美しく整えられ、今も若い僧侶の方がお一人、熱心に砂を撒き手で波紋を作っておられます。

 

 珍しい“十王堂(じゅうおうどう)”。十王とは、死後の世界で死者の行き先を決める裁判官のようなもので、人間が死ぬと七日ごとに10人の王が次々と現れて裁判が繰り返され、生前の所業により苦楽を離れた極楽浄土へ行けるか、六道(りくどう=地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)の輪廻(りんね)へと行くか、その運命が決まるといわれています。遺された家族が七日ごとに法要を行うのはそのためですね。

 

 とても広く美しい境内。

 

 優美な姿の山門を内側から見ています。

 

 大雄寺の本堂。宗派は浄土宗、御本尊は阿弥陀如来です。

 

 松の木と鐘楼。

 

 木蔭に結跏趺坐(けっかふざ)する石仏は薬師如来坐像で、案内板によるとむかし疫病が流行ったとき、薬を買えない庶民たちが、この薬師如来が手に持つ薬壷(やっこ)を少しずつ削って飲み、病を免れたと伝わるそうです。確かに右の手首から先が失われていますね。

 

 作業をしておられた僧侶の方が、時間があれば庫裡(くり)から本堂へどうぞと声をかけてくださったので、

 

 お言葉に甘えて上がらせていただきます。

 

 境内にも増して掃除の行き届いた庫裡。

 

 廊下をすすむと

 

 右手に写経場。

 

 その先が

 

 広くて明るい本堂です。

 

 本堂から見る伽藍(がらん)。

 

 最後になりましたが、圧倒的な存在感を放つ華麗な大雄寺の山門を見上げます。門内には力強い仁王像もおられます。

 

 山門の下には“六角堂(観音堂)”も。

 

 大雄寺(だいおうじ)の大伽藍を出て、すぐ隣は赤い屋根がとても美しいお寺なのですが、

 

 人影もなくひっそりとしていて「浄土宗 洞雲院(とううんいん)」と書かれた小さな札が掛けられているだけでした。本堂から渡り廊下でつながるお堂は“子安地蔵堂”のようです。

 

 国道158号線を渡ると壮大な石垣が現れて、

 

 その上に建つのは曹洞宗の寺院“素玄寺(そげんじ)”です。

 

 見晴らしのよいところに建つ鐘楼。

 

 素玄寺は、初代高山城主・金森長近(かなもりながちか)の菩提を弔うために二代藩主金森可重(ありしげ)が建立した寺院で、長近の法号に因んで素玄寺と名づけられ、その後は金森家歴代の菩提所となっているそうです。

 

 つづいて“天照寺(てんしょうじ)”。創建時は天台宗の寺でしたが江戸時代に再興され、浄土宗に改宗されたそうです。

 

 天照寺の鐘楼。

 

 木漏れ日が美しいキラキラ

 

 少し歩くとつぎの“法華寺(ほっけじ)”に入ります。

 

 東山遊歩道は各寺の境内を横切っているので、一度山門の外へ出て入りなおします(笑)。

 

 法華寺はその名の通り法華宗の寺ですが、寺伝によると創建は1558(永禄元)年、開祖の日扇聖人が故郷に法華宗の道場がないことを憂いて弟子を飛騨国に入らせ、道場を創立したのが始まりだそうです。御本尊は十界互具本尊(じっかいごぐほんぞん)というそうです。

 

 また案内板によると1632(寛永9)年、肥後国熊本藩主加藤清正の嫡孫にあたる加藤光正が九州から配流され、隣の天照寺に蟄居するも20歳の若さで病死したことを哀れんだ三代目藩主金森重頼(しげより)が、1634(寛永11)年に高山城内の建物を移築して本堂としたと書かれています。

 

 その本堂とは渡り廊下でつながれ、

 

 境内からは池に架かる太鼓橋(※現在は渡れません)の先に佇むのは、

 

 風格ある唐破風屋根を持つ“法華寺番神堂(ばんじんどう)”です。案内板によると内部の上段には五連の柱が設けられ“三十番神”が祀られているそうです。法華の三十番神とは、毎日交代で人びとを守る神々のことで、三十一日目には五番善神(鬼子母神(きしもじん)と十羅刹女(じゅうらせつにょ)・薬王(やくおう)菩薩・勇施(ゆせ)菩薩・毘沙門天・持国天)が任ずるといわれているそうです。何ともありがたいお話しに、心を込めて手を合わせます。

 

 法華寺を出て東山遊歩道を歩いていくと、

 

 そのままつぎの“善応寺(ぜんのうじ)”の境内に入ります。善応寺は戦国時代、金森氏の前に飛騨を治めていた三木氏の菩提寺だったところで、真言宗の寺でしたがその滅亡とともに焼失し、金森長近によって曹洞宗に改められ再興されたそうです。

 

 凛とした佇まいの善応寺の本堂。観音尊像を本尊とし、その観音像は戦国時代の武将・三木自綱(みきよりつな)の念持仏でしたが、落城にともない善応寺も焼失の憂き目に遭うも、火中にありながらも燦然と輝きを放つ観音像に驚いた金森長近が、持ち帰って祀ったと伝わるそうです。

 

 境内に建つ“願王殿”。内部には地蔵菩薩が祀られているようです。

 

 善応寺は坐禅を体験できるお寺としても有名だそうです。

 

 善応寺を出て東山遊歩道を歩いて行くと、ふたたび石垣に出会い、

 

 その左手が“宗猷寺(そうゆうじ)”の山門です。

 

 立派な石垣の上に建つ鐘楼。宗猷寺の石垣はもとは高山城にあったもので、飛騨代官の知遇を得て移築したと伝わり、とても見応えがあります。

 

 山門から入ると本堂の正面ではないので、

 

 一度出て、この見事な石垣の切れ間にある石段を上ると、

 

 正面が壮大な宗猷寺(そうゆうじ)の本堂です。宗猷寺は三代目藩主の金森重頼(しげより)が弟の重勝(しげかつ)とともに父金森可重(ありしげ)の菩提を弔うために1632(寛永9)年に建立した寺で、高山市内では唯一の臨済宗(りんざいしゅう)妙心寺派(みょうしんじは)の寺院とされ、御本尊は釈迦如来だそうです。

 

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 重厚な趣の本堂は禅宗様式と唐様式が混交する二層構造になっているそうで、その前に立つだけで自然と頭(こうべ)を垂れたくなるような荘厳さが漂います。

 

 こちらは境内にある“観音堂”で御本尊は聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)、飛騨三十三観音霊場の六番札所にもなっているそうです。

 

 また宗猷寺は江戸末期の幕臣で優れた書家、剣術家でもあった山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)ゆかりの寺としても知られているそうです。鉄舟は実父小野高福(おのたかとみ)が飛騨郡代として高山陣屋に赴任するのに同行して高山で幼少期を過ごし、この宗猷寺で禅を学んだと伝わるそうです。そのため境内には鉄舟の両親の墓と鉄舟を記念する碑もあります。

 

 みごとな枝ぶりの赤松。

 

 東山遊歩道沿いの寺社仏閣を順番に歩きながら詣でましたが、とてもすべてを回りきることはできず、ほんのいくつかのご紹介になってしまいました。分別なく写真を撮るものだから今見返すと同じような写真ばかりで、恥ずかしながらじぶんでも区別がつかず、もしかしたら入れ違い、勘違いなどがあるかもしれません。数々の不手際伏してお詫びを申し上げます。

 

 高台にある東山寺町を出て、高山のメインストリートのほうに戻ります。

 

 ふと見ると“飛騨高山まちの博物館 入館無料”の立て看板があります。

 

 ちょうど歩き疲れたところでもあり、

 

 見学をかねて休憩させていただくことにします。

 

 内部は写真撮影ができないのですが、江戸時代からつづく豪商の土蔵を改装した建物の中には、高山城主金森氏に関する資料や庶民の生活道具、また高山祭のからくり人形などいろいろなものが展示・公開されています。

 

 東山寺町の散策を終え、つづいて町家建築の立ち並ぶ高山の“古い町並”を訪ねようと思います。

 

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