尾白川(おじらがわ)渓谷の帰り道、かつて甲州街道の宿場町として栄えた台ケ原宿(だいがはらしゅく)に立ち寄りました。

 

 甲州街道は江戸時代、徳川家康によって整備された日本橋を起点とする“五街道”のうちの一つで、江戸から八王子、甲府を経て中山道(なかせんどう)の信州・下諏訪宿に至る56里(約219km)の間に44次の宿場が置かれ、ここ台ケ原宿(山梨県北杜市)は江戸から数えて40番目の宿場町だそうです。

 

 台ケ原宿の入口に建つ“本陣屋敷跡”の碑と石造りの常夜燈。本陣は大名や旗本など身分の高いひとたちの宿泊所となるので、屋敷には門や式台玄関、上段の間を備え、書院造りが許されるなど広さだけではなく格式の高いつくりになっています。案内看板によると台ケ原宿の本陣は小松家が代々世襲し、往時は敷地面積351坪に建坪92坪の屋敷を構えていたそうです。またこの常夜燈は台ケ原宿の防火を祈願し、1867(慶応3)年に“秋葉大権現”の石燈籠を本陣・小松家の敷地内に建立したものだそうです。 

 

 台ケ原宿には本陣一軒、脇本陣一軒、問屋場一軒、旅籠14軒、高札場(こうさつば)一ヶ所、郷倉一ヶ所、一里塚一ヶ所が設けられ、人足25人、馬25頭が配備されていたという記録が残っているそうです。ここはその中の高札場と郷倉の跡地です。高札場は幕府からの命令を板に墨書して掲げ、民衆に知らせるためのもので、郷倉は非常時用の“囲い籾(もみ)”を備蓄した倉庫だそうです。

 

 街道の中でもひときわ構えが大きく、巨大な杉玉の掛かるこちらは造り酒屋の“山梨銘醸(やまなしめいじょう)株式會社”。扁額の『七賢(しちけん)』は地酒として有名な山梨銘醸の登録商標です。

 

 山梨銘醸株式會社を経営する北原家は醸造業のかたわら台ケ原宿の脇本陣も務めた家柄で、1880(明治13)年6月の明治天皇の山梨・三重・京都御巡幸の際には、行在所(あんざいしょ=天皇陛下が行幸の折に滞在するところ)にもなったことを示す石碑が屋敷の門前に建っています。 

 

 こちらは“問屋場跡”。問屋場とは人馬継ぎ立ての駅務を行う事務所のことで、常に役人が詰め、街道を行き来する人馬の交代に伴う引継ぎ作業の際の荷物改めなどを行っていたそうです。また大名行列など人数の多いときには近隣から手伝いが来たり、旅籠として使われることもあったそうです。
 

 街道のメインストリートの中で店前に人だかりができているのは、老舗和菓子舗の“台ケ原金精軒(きんせいけん)”。ここは地元の梨北米という米を100%使ってつくられる“生信玄餅”が名物だそうですが、信玄餅といえばもう一つ、山梨銘菓として全国的にも知られる“桔梗信玄餅”もありますよね。

 

 金精軒と桔梗屋の関係や如何にはてなマーク・・・と思って少し調べてみると、きな粉と黒蜜を絡ませて食べる餅菓子を「信玄餅」として先に商標登録したのが金精軒だったので、そちらが元祖と呼ばれるようになり、実質的に先に信玄餅を販売し始めた桔梗屋の方は「桔梗信玄餅」を正式名称としたのだそうです。名前は違えどその美味しさは甲乙つけがたく、比べるものではないですよねニコニコ

 

 ところでこのレトロな空間は台ケ原金精軒本店の2階の喫茶スペースで、1階の店舗で購入したお菓子を、街道沿いに置かれたベンチやこの2階でいただくことができます。

 

 金精軒の名物は店頭でも一番人気の“極上生信玄餅”なのですが、実はわたしの今日のお目当ては、こちらの夏季限定“水信玄餅”ラブラブ。経木(きょうぎ)の舟に浮く大きな水の玉みたいなそのビジュアルにまずびっくり目!!

 

 なんと「消費期限は30分」ビックリマーク。南アルプスの山々が磨き上げた白州(はくしゅう)の名水を、ギリギリ形をとどめるくらいのわずかな寒天のみで固めた水菓子で、体温でも水に戻ってしまうほど儚(はかな)いものなので、もちろん持ち帰りはできず、夏の期間限定でここでしか味わうことのできない一品なのです。

 

 おしゃべりや写真を撮る間も惜しい思いで特製青大豆のきな粉と黒蜜をかけて、さっそくいただきます。ほんとうに口に入れた瞬間に水に戻って消えてなくなるんですビックリマーク。さっきまで目の前にあったのに、ほんとにわたし食べちゃったの!?と最後に残ったきな粉と黒蜜を食べながらも半信半疑爆  笑。スプーンでちょっとつつくだけでも弾け散りそうな、繊細で不思議な食感のお菓子ですラブラブ

 

 窓辺の席からは下に街道が見え、向こう側の木造の古民家ふうの建物は、蔵元山梨銘醸直営のレストラン“臺眠(だいみん)”です。

 

 台ケ原金精軒の2階には、むかし懐かしいKAWAI(カワイ)の足踏みオルガンや古いレジスター、謄写版(とうしゃばん)の木箱などが展示されていて、お菓子をいただいた後も見物しながら楽しめます。

 

 つづいて店構えからして風格漂う銘酒「七賢(しちけん)」の蔵元、“山梨銘醸株式會社”を見学します。

 

 “七賢”といえば“竹林の七賢人”のこと。中国の晋の時代に俗塵(ぞくじん)を避けて竹林に集い、酒を酌み交わしながら清談(せいだん)を交わしたという七人の賢人のことで、儒教の倫理観を離れた自由な議論により新しい思想を生み、後世に大きな影響を与えたといわれています。

 

 暖簾をくぐると三和土(たたき)にはたっぷりと水が打たれ、蒸し暑さがす~っと癒されます。この真ん中に走る二本のレールは何でしょうはてなマーク。想像ですが、重い酒瓶を詰めた木箱などを運ぶための台車か荷車が通るレールではないかと・・・。

 

 左手はクラフトショップ。

 

 その先は母屋で、上がり框を上がると右手には糀糖を使ったスイーツがいただけるカフェ“糀’s”があり、正面奥が明治天皇の行在所(あんざいしょ)となった奥座敷のようです。

 

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 カフェの“糀′s”は「こーじーず」と読むのかなはてなマーク

 

 そして案内看板を見ると、行在所の見学は1日3回時間指定(10:30・12:30・14:30)の予約制で、この日の見学時間はとっくに終わってしまっているので、残念ながらこの先を見ることは叶わぬようです。

 

 近くで作業しておられた方に尋ねると、写真撮影だけならOKとのことなので、締切ロープギリギリのところから鶴のように首を伸ばして中をのぞき込み、

 

 一生懸命撮れる限りの写真を撮っていると、後ろからすっと寄って来られた男性の方が「そんなに見たいならいいですよ。どうぞ、ご案内しましょう」とロープを外してくださるではありませんかビックリマーク

 

 ええ~っビックリマーク時間外で予約もしていないのにいいんでしょうか・・・と一応辞退しつつも内心嬉しくてたまらず、その方についてロープの中に入らせていただきます。

 

 後でわかったことですが、なんと声をかけてくださった男性の方は山梨銘醸のご当主で第十二代蔵元でいらっしゃる北原兵庫氏その方で、いかにも未練がましくのぞき込み、写真を撮ろうと身を乗り出すわたしを見かねてとのことで、大変申し訳なく、穴があったら入りたい思いでしたあせる

 

 そういうわけで、ありがたいことにご当主自ら案内と解説をしてくださりながらの見学となりました。こちらは甲州街道に面した式台玄関の正門を内側から見たところ。当時天皇陛下は現人神(あらひとがみ)と崇められていたので、人びとの目に触れるのを極力避けるために輿に乗ったまま奥座敷へと入られ、接待を仰せつかった北原家の人たちでさえもそのお姿を目にすることはなく、謁見を許されたのは“一夜侍従(いちやじじゅう)”を務められた当時の六代目蔵元北原延世氏とそのお子さまお二人だけだったそうです。

 

 明治天皇の行幸は1880(明治13)年6月22日。奇しくもちょうど144年前の今日です。当日はとても蒸し暑い日で、天皇陛下をお迎えするべく北原家の女性たちは朝からきちんと着物を着て身なりを整え、ふだんはしないお化粧までしてかしこまってお待ちしていたところ、白粉(おしろい)などの化粧品が今のようなウォータープルーフ仕様であるはずもなく、天皇陛下ご到着のときにはお化粧が汗ですっかり流れ落ち、揃って異様なお顔になっていたと後に宮内庁より届いた「行幸録」に記されていたそうです。女性の皆さんの緊張とご苦労が伝わってくるエピソードですね。

 

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 手入れの行き届いた前庭。富士山の形をした庭石がひときわ目を惹きます。

 

 そして三間つづきの母屋の奥座敷。手前の欄間(らんま)には北原家の家紋が二種類彫り込まれ、丸に桔梗紋が表紋で当主が使うもの、丸に二つ引き紋は裏紋で当主以外の家族や親族が使うものと分けられているそうです。

 

 行在所として使われた奥座敷三間の真ん中の部屋には、明治天皇が滞在中お使いになった箸や、天皇家からお礼として下賜(かし)された「金五拾圓と白羽二重壹匹」の目録の写真が展示されています。五拾圓(50円)は現在の貨幣価値では約100万円、白羽二重(しろはぶたえ)は上質の絹織物で、壹匹(一匹)とは二反分の長さ(約24m)の反物(たんもの)一巻のことをいいます。

 

 それらの実物をはじめとして、300年の歴史を誇る北原家に代々伝承されてきた貴重な品々が店内の“伝奏蔵(でんそうぐら)”にて展示公開されているそうですが、こちらの見学も1日4回の時間予約制(10時・11時・14時・15時)で今回は見ることができなかったので、上の写真はいただいたチラシよりお借りしました。

 

 中の間の畳廊下には、先代か先々代か聞き逃してしまいましたが、奥さまがお輿入れのときに乗ってこられた駕籠(かご)と長持(ながもち)が展示されています。このお品を拝見するだけでも、今ではもう見ることもできない華やかな花嫁行列だっただろうことが偲ばれます。

 

 そして最奥の座敷との間にある欄間が銘酒『七賢』の由来となった“竹林の七賢人”の図柄です。北原家は代々信州高遠(たかとお)藩の御用造り酒屋の家柄で、その第七代北原伊兵衛氏が江戸への商用で甲州街道を行き来するうち、ここ白州の水の美味しさにほれ込んで、1750(寛延3)年に分家して台ケ原で酒造業を始めたのが起源だそうです。そういうつながりから、第五代蔵元北原延重氏が母屋を新築したとき、高遠城主内藤駿河守(するがのかみ)より竣工祝いとして贈られたのがこの“竹林の七賢人”の欄間一対だったそうです。

 

 こちらが明治天皇が御寝所としてお休みになった座敷。三間ともに床の間のついた座敷ですが、この部屋にはさらに書院が付き、床脇には天袋と変わり違い棚まである最も格式の高いつくりになっています。

 

 欄間つきの書院。

 

 そして床の間の落とし掛けは黒漆(くろうるし)、なんと聚楽壁(じゅらくかべ)の縁取りにまで細い漆塗りの枠がつけられています。目立たぬところに手間とお金のかかったぜいたくな意匠です。

 

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 横から見ると、床の間と床脇の間には“狆潜り(ちんくぐり)”という装飾も施されています。小型犬の狆(ちん)が通れるくらいの隙間ということで狆潜りと呼ばれますが、本来の目的は書院から採り入れた光を床脇の違い棚の下にまで届けるためのものといわれています。

 

 床柱には明治天皇のレリーフが掛けられています。

 

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 奥座敷の先には廊下伝いにお手洗いと浴室(現在修復中)があるのですが、明治天皇がそこをお使いになることはなく、行幸にはすべて専用の寝台(ベッド)と浴槽を持参するのが慣わしなのだそうです。そういえば天皇陛下が布団ではなくベッドで休まれるのは、万が一にも床下から賊に襲われることのないよう用心のためとどこかで聞いた覚えがあります。またご当主の話によると、天皇陛下の寝台(組立式)と浴槽は2セットあり、1セットをお使いになっているときにはもう1セットは先行して次の行在所に運ばれていくという段取りになっているそうです。なるほど~。

 

 北原家では、書院奥の縁側のこのベンチが置いてある部分の壁をぶち抜いて、隣の分家の敷地内に、明治天皇のためだけの御東所(おとうしょ=便所)と浴室を新築して御用に供し、その後は誰も使わぬようすぐに取り壊し、またこのように壁に戻したそうです。たったご一泊のためにそこまでなさるのですか・・・と我々庶民には想像すらできないような話です。ご持参の浴槽を置いて入浴なさったのなら、新品の浴槽は一度も使われずに取り壊されたわけで、何とももったいないですよね~。

 

 陛下のご滞在が終わりご出立された後は奥座敷三間すべてに注連縄が張られ、家人ですら立ち入りを禁じられていたそうですが、その後文部省の要請により文化財に指定され、今はこうして公開することもできるようになったそうです。五拾圓(現在の100万円)の御下賜金にすごいなぁ~と思いましたが、北原家のすべての入り用を考えてみるととてもとても収まるものではなく、ご当主もしみじみと「まぁ軽く2~3倍はかかっていたでしょうね。やはり金額よりも、行在所になったという名誉が一番だったのでしょう」とおっしゃっていました。

 

 御寝所になった座敷の畳は幅の広い高麗縁(こうらいべり)で、これもおそらく明治天皇をお迎えするために畳替えをされたものと思われます。畳だけでなく壁紙や襖紙なども当然手入れや修復が必要になりますが、ご当主のお話しによると文化財なので北原家で勝手に修理することはできず、すべて専門家の調査が入り、指定の材料、指定の紋様など細かな指示のもとでしか修復もできないのだそうです。個人の家で文化財を守り伝えていくのには大変な手間とご苦労があるのですね。

 

 内側に花模様が描かれ、灯をともすとそれが外側に浮かび上がるようにつくられたモダンなランプ。なんておしゃれ合格飛び出すハート

 

 傍らにとても珍しいアップライトピアノが展示されています。わたしも実物は初めて見たのですが、これは“周(しゅう)ピアノ”といい、100年くらい前に横浜中華街の工房で周さんという中国人の手によって作られていたピアノで、確か世界でも数十台しか現存していないので“幻のピアノ”ともいわれる貴重な名品です。

 

 ご当主によるとこのピアノは、第十代蔵元の姉君が福沢諭吉の孫にあたる中村愛作氏と結婚なさり、その愛作氏が子どもたちのために横浜中華街で購入されたものだそうです。当時ピアノはとても高価で、家一軒と同じくらいの値段だったので、東京・恵比寿に住んでおられた愛作氏はせっかく手に入れたピアノが空襲で焼けてしまうのはもったいないとこちらに疎開させたので、今もこうして大切に保存されているそうです。ハンマーなどの部品が額装されているのを見ると、一度はオーバーホールなさったのかもしれません。どんな音色か、聴いてみたいなぁ~音譜

 

 こちらの小部屋は1894(明治27)年、第八代蔵元・北原滝蔵氏の個人銀行として設立された“菅原(すがはら)銀行”の事務室だったところだそうです。昭和になって銀行法が交付されると同時に個人銀行は廃止され地元の銀行に吸収されたそうですが、家内に銀行を構えるほどに裕福な豪商だったことがわかります。

 

 街道に面した菅原銀行の入口は、造り酒屋と区別するためかブロック塀で囲われています。

 

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 すっかりご当主の御厚意に甘えてしまい、時間外しかも予約なしなのに丁寧なご説明とともに見学をさせていただき、感謝の念に堪えません。この場をお借りして、こころより御礼を申し上げます。 

 

 思いがけない幸運にまだ半分夢見心地、幸せな余韻に浸りながら店内を巡ります。

 

 涼し気な蹲踞(つくばい)。

 

 蔵のひとつは喫茶室のようです。

 

 こちらが明治天皇ゆかりの品々など貴重な美術品を展示する“伝奏蔵(でんそうぐら)”。

 

 敷地内には注連縄の張られた醸造用の源泉もあります。窓の中をのぞくとたくさんのパイプがあり、汲み上げたあと、頭上を渡る管で醸造所へ送られていくようです。

 

 左の井戸は“御膳水”と記され、明治天皇御宿泊の折、その飲用水として献上したものだそうです。今も大切に保存されているのですね。

 

 わたしはお酒に疎くて詳しくはわからないのですが、瓶の中でこの二次発酵をさせると、シュワシュワした泡の“スパークリング日本酒“ができるそうですね。

 

 奥から店頭のほうを望む。どこを見てもフォトジェニックキラキラ

 

 店内に入ってすぐ右手にある“酒処 大中屋(おおなかや)”は山梨銘醸でつくられるお酒のほか、糀糖を使ったスキンケア商品や発酵食品などが購入できるショップです。欄間に因み七賢人の名前を冠した搾りたての生酒(上段左から「阮籍(げんせき)」「向秀(しょうしゅう)」「嵆康(けいこう)」「劉怜(りゅうれい)」「阮咸(げんかん)」「山濤(さんとう)」「王戎(おうじゅう)」)は、ここでしか味わうことのできない逸品揃いです。

 

 大中屋のカウンターでは300円で小さなグラスを購入し、有料で希望のお酒のテイスティングができます。日本酒好きの夫はさっそくチャレンジビックリマーク。最高級の「王戎(おうじゅう)」は搾るのではなく“雫(しずく)取り”という自然に滴る分だけを瓶詰めするので採れる量がとても少なく、その上大人気なので蔵元でもすでに完売とのこと。夫は「劉怜(りゅうれい)」「阮咸(げんかん)」「山濤(さんとう)」の3つを試飲して、自宅用に「阮咸」を一本求めていました。

 

 わたしは下戸(げこ)なのですが、ほんとうに美味しい日本酒だけは好きで、自宅で夫の盃を少しだけ舐めさせてもらったら、「阮咸(げんかん)」はすっきりと軽い味わいの中にほんのりと甘い香りが漂い、とても美味しかったです。お店の方に値段の違いを尋ねると、簡単にいうと米の磨き具合が違い、最高級の「王戎(おうじゅう)」は25%まで磨き上げているそうです。

 

 “名水あるところに銘酒あり”といいますが、尾白川渓谷の行き帰りに見た早苗田を思い出すとこの辺りは米どころでもあるようで、美味しいお酒の生まれる土壌にも恵まれているのですね。

 

 台ケ原宿には金精軒や山梨銘醸をはじめとして当時の旅籠や商家の面影の残る建物がいくつかあり、街並みがよく保存され「日本の道100選」にも選ばれているのですが、それはやはり現在の甲州街道(国道20号線)が別のところに整備されたおかげではないかと思います。徒歩や馬での移動が主だった江戸時代の風情を偲びながらの宿場町巡りはとても楽しくて、これからちょっとクセになるかもしれません(笑)。

 

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