上高地~別所温泉旅の三日目は一日雨予報雨で行き先を何も考えていなかったので、東京方面へ向けて帰りながらガイドブックで立ち寄れるところを探します。

 

 曇り空くもりながら予報に反して雨が落ちて来ないので、急遽思いついて行ってみることにしたのがここ、北國(ほっこく)街道海野宿(うんのじゅく)です。

 

 別所温泉の旅館花屋さんをチェックアウトして、ナビゲーションのいう通りに海野宿へ向かっていたら、途中車もほとんど通らないような道の脇に、“木曽義仲史跡 正海清水”(長野県上田市)と書かれた小さな看板を見つけました。木曽義仲(源義仲)といえば、平安時代末期に以仁王(もちひとおう)の宣旨を受けて、平家討伐のために挙兵したという史実が思い浮かび、それがこの辺りなのかもしれないと思い車を停めました。

 

 史跡らしいところに行ってみると“正海清水”は「しょうかいしみず」と読み、この辺りに湧き出す水のことで、木曽義仲軍逗留の折にはその飲料水として使われたのだとか。名の由来は、あるとき正海というお坊さんが、水を求めて美しい娘の家に立ち寄ると断られ、醜い娘の家ではたっぷりと飲ませてくれたので、お礼に杖で地面を叩くと、清らかな水がこんこんと湧き出したという伝説に因むそうです。碑の後方には、1927(昭和2)年に作られたその湧水を使用した地元民のための簡易水道の遺構も残されています。

 

 また道向かいには“高築地館(たかついじやかた)跡”と書かれた同じ標柱がありました。案内板によると、木曽義仲をこの地に招聘(しょうへい)した地元の有力豪族依田(よだ)氏が、義仲逗留のために自らの居館を明け渡し、ここに自身の居館(高築地館)を建てて移り住んだところと推定されるそうです。

 

 そして正海清水のすぐ近くには『木曽義仲挙兵の地』と墨書されたひときわ大きな標柱が聳えています。義仲は1181(治承5)年、信州丸子(まるこ)を本拠地として挙兵し、越後、北陸へと軍勢を進めながら横田河原の戦い、俱利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い、篠原の戦いなどに次々と勝利を納め、破竹の勢いのまま京に入り平家追討を成し遂げたといわれています。

 

 義仲を迎え入れたのは依田氏のほか丸子氏、長瀬氏という丸子地域の豪族たちで、義仲は丸子に約2年半逗留しながら挙兵の準備を整えたので、近隣にはこの大標柱を中心に義仲関連の史跡が多数点在しているそうです。

 

 丸子の義仲挙兵の地を出て20分ほどで“北國街道海野宿”(長野県東御市・とうみし)に到着し、市営駐車場に車を停めると、ここにも『木曽義仲白鳥河原の勢揃い』の横断幕がありました。“滋野(しげの)御三家”とは、信濃国小県郡(ちいさがたぐん)を本貫(ほんがん)とする豪族、滋野氏(しげのうじ)から分家した海野氏(うんのうじ)、祢津氏(ねつうじ)、望月氏(もちづきうじ)のことをいうそうです。義仲の挙兵時、白鳥河原(千曲川の河川敷)に集結した軍勢は二千騎余り、その中心が滋野御三家だったのかもしれません。

 

 近くに“海野氏發祥之郷(はっしょうのごう)”碑もあります。海野氏は滋野(しげの)御三家の中でも嫡流を名乗る有力豪族で、木曽義仲の挙兵に従軍するも、義仲の死後その嫡男源義高の逃亡を助けるために身代わりとなったことで源頼朝に忠誠心を認められ、滅亡を免れて家来として取り立てられます。また都にも聞こえるほどの弓馬の名家だったため鎌倉武士の弓馬四天王としても名を馳せ、激動の平安~鎌倉時代を生き抜いたという家柄だそうです。

 

 海野宿の入口に大木の聳える神社がありました。

 

 それがこちらの“白鳥神社”。日本武尊(やまとたけるのみこと)の白鳥伝説を縁起とし、海野氏とその子孫にあたる戦国時代の名将真田(さなだ)氏の氏神として大切に祀られてきた歴史ある神社だそうです。小さな神橋を渡り明神鳥居をくぐって、御神域へ入ります。

 

 白鳥神社の創建年は不明ですが、軍記物語『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』の木曽義仲挙兵のくだりには、義仲が“白鳥大明神”に戦勝祈願したとの記載があり、少なくとも平安時代にはこの地に鎮座していたことがわかるそうです。

 

 瓦屋根が印象的な拝殿。桟瓦葺(さんかわらぶき)の屋根の上に、「白」「鳥」「社」と一文字ずつ刻んだ瓦が等間隔にはめ込まれています。

 

 白鳥神社の御祭神は日本武尊、滋野氏および海野氏の祖と伝わる貞元親王(さだやすしんのう)と善淵王(よしぶちおう)、そして海野氏を名乗った初代の海野弘道公の四柱です。それぞれの御祭神に因み、必勝・縁結び・厄除け・長寿などの御神徳がいただけるそうです。

 

 御神木は樹齢700年を超える大欅(おおけやき)。貫禄がありますラブラブ

 

 境内の端には恵比寿天と大黒天が祀られていて、

 

 拝殿の左右には境内社の鳥居が並びます。

 

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 向かって左は稲荷社。

 

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 拝殿の後方には流れ造りの本殿が見えます。

 

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 ぐるりと回り込み、失礼して瑞垣(みずがき)の間から手を入れて本殿の美しい彫刻を撮らせていただきました。

 

 向かって右手の境内社は“新海宮”。周囲には道祖神や小さな祠がたくさん祀られています。

 

 海野宿に来て最初に見た御神木に勝るとも劣らない大木の下には神池があり、

 

 “鯨石(くじらいし)の噴水”の看板が立っています。噴水はなかったけれど、池中の大きな石はたしかに鯨の背中に見えますね。

 

 白鳥神社の御朱印です。

 

 宿場の東端に位置する白鳥神社を出て、そこから一直線に伸びる北國(ほっこく)街道海野宿を歩きます。北國街道は中山道(なかせんどう)と北陸道を結ぶ重要な街道で、佐渡(新潟県)で採れた金の輸送や、北陸地方の諸大名の参勤交代など江戸への行き来も多く、善光寺参りの参拝客でも賑わっていたそうです。

 

 白鳥神社のお隣の“海野宿ふれあいセンター”の敷地には、

 

 古くから縁結び地蔵として大切にされてきた“媒(なかだち)地蔵尊”が祀られています。言い伝えによると、その昔娘に良縁がなく困り果てていた加賀百万石前田家の殿さまが、参勤交代の途中にこの媒地蔵尊にお参りしたところ良縁に恵まれたので、喜んだ殿さまは御礼参りに訪れて、お地蔵さまを守るためのお堂を寄進したそうです。ここにはかつて地蔵寺という寺がありましたが焼失後廃寺となったので、焼け残った山門の近くに現在の堂を再建したと案内板に書かれていました。

 

 海野宿は江戸時代は街道の宿場町として栄え、明治に入りその務めを終えてからは旅籠仕様の大きな家を再利用して養蚕業・蚕種業(ようしゅぎょう)の村へとシフトしていったので、江戸時代の旅籠屋(はたごや)造りの建物と、明治以降の蚕室(さんしつ)造りの建物が混在しながら調和して、独特の街並みを形成しているそうです。

 

 街道の中央には清らかな用水が流れ、その両側に歴史を感じさせる古風な建物が立ち並び、一瞬江戸時代にタイムスリップしたような感覚に陥ります。

 

 一つひとつの建物は手入れが行き届き保存状態がとてもよくて、屋号だけを掲げた家の合い間合い間に表札の出ている個人のお宅もたくさんあるので、今もここで実際に生活をされているものと思われます。

 

 海野宿はこのような伝統的な街並みが今もよく保存されていることから、1986(昭和61)年には「日本の道100選」に、翌1987(昭和62)年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されているそうです。地元のひとたちのご尽力のおかげで、こうして江戸の風情を肌で感じられることに感謝ですラブラブ

 

 ひときわ大きなこちらは“本陣跡”だそうです。本陣は宿場の中でも大名や旗本など身分の高い人たちをお泊めするところで、その地方の有力者の邸宅をあてることが多く、本陣に指定されると主人は名字帯刀(みょうじたいとう)を許され、邸に表門や式台玄関、上段の間などを設けることができて家としての格式も上がるので、宿代そのものよりも本陣であることの名誉の方が重んじられたのではないかと思います。

 

 前庭には見るからに立派な植栽。

 

 美しい格子戸の前に据えられているのは“馬の塩舐(な)め石”。海野宿には当時100軒余りの家々が立ち並び、人びとの用を務める数十頭の伝馬(てんま)が常備されていたそうです。何より大切な足である馬に舐めさせる塩を盛った石の器に愛情を感じますラブラブ

 

 途中に海野宿の歴史や見どころを解説した見やすい街道案内がありました。

 

 観光案内所も兼ねるお休み処の“うんのわ”さんに暖簾が出ていたので、

 

 訪(おとな)いましたが人影はなく、「ご自由にお入りください」と書いてあるのに甘えて遠慮なく入らせていただきます。

 

 内部は古民家ふうの造りで、映画『KINGDOM3~運命の炎』のポスターも貼られています。この辺りでロケされたのでしょうかはてなマーク

 

 建物は奥行きが深く、中庭に出ると土蔵やその他にもワークスペースのような建物があるのですが、この日は催しが何もないのかひっそりとしていて人の気配はありませんでした。

 

 裏庭に出て屋敷神さまの鳥居の写真を撮っていると、背後にちょうどしなの鉄道の赤い電車が走り抜けて行きました。

 

 民家の窓辺には置き物のように愛らしいシャム猫ちゃんが音譜

 

 古本カフェ“のらっぽ”さん。

 

 家と家のあいだの露地にも風情があります。

 

 むかし懐かしい赤ポストの前には“なつかしの玩具展示館”。

 

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 そして“海野宿資料館”。

 

 宿場など家が密集して建っているところでよく見かける“梲(うだつ)”という防火壁も、海野宿のそれはとても装飾性が高く美しいです。梲を高く上げることは繁栄のしるしでもあるので、「うだつが上がらない」と言えば“ぱっとしない、出世できない”という意味になります。こちらのお宅はみごとに「梲が上がって」いますねニコニコ

 

 この日は平日の午前中なので通りに人影が少なくとても静かで、土産物屋や食事処などの商業施設も約六町(650m)の街並みの中に数軒あるだけなので一見閑散とした印象を受けるのですが、歩いていると逆にそれが心地よく、散策そのものを楽しめる幸せに満たされます。うまく言えないのですが、住民の方々の暮らしを守りつつ観光客も受け入れるという、海野宿の観光地としての明確な方向性が感じられて、わたしはとてもいいなぁと思いました。媚びない心意気、それが海野宿の魅力ですラブラブ

 

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