時系列が前後しますが、安中のめがね橋と碓氷湖から下ってきた後に、横川の“碓氷(うすい)関所跡”(群馬県安中市)を訪ねました。

 

 江戸時代の主要な陸路だった日本橋を起点とする五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)には、俗に「入り鉄砲に出女」と言うように、幕藩体制の維持や江戸の治安維持を目的として要所要所に関所が設けられ、中でも東海道の箱根関所と新居(あらい)関所、中山道(なかせんどう)の碓氷関所と福島関所は“天下の四大関所”と呼ばれ、江戸の重要な防衛拠点となっていたそうです。

 

 以前訪れた箱根関所(2021年10月12日付『箱根関所を訪ねる』)や福島関所(2021年11月3日付『木曽路を行く④~福島宿』)には、広い敷地に復元された各種施設や付属の資料館などがあり見学ができたのですが、同じ四大関所でも現在“碓氷関所跡”として遺されているのはこの復元された門が一つと、

 

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 “おじぎ石”のみ。当時はおそらく険しい碓氷峠の山間に、厳しく出入りを見張るための番所が置かれ、大勢の役人や門番などが詰めて業務に当たっていたはずですが、その面影を偲ぶものがほとんど残っていないのはとても残念です。

 

 案内板によると碓氷関所の歴史はとても古く、醍醐天皇の御代の899(昌泰2)年に、群盗を取り締まるために碓氷坂に関所を置いたのが始まりだそうです。この場所に関所が移されたのは元和年間(1615~1623年)で、1869(明治2)年の廃関令まで実に250年以上にわたり、中山道の要所としてその役目を果たしていたそうです。

 

 おじぎ石の横には“碓氷関史料館”と書かれた建物もありますが、扉は固く閉ざされ長らく人の入った形跡もありません。どこかに移転したのでしょうかはてなマーク

 

 関所跡の敷地の中には小さな社がありました。もともとここにあったものなのか、どこかから遷座(せんざ)されたものなのか詳細はわかりませんが、紙垂(しで)を見てもどなたかきちんと管理をされているようなのが嬉しくて、丁寧にお詣りしました。

 

 同じ敷地内に“碓氷関所会館”もありますが、こちらも無人で閉ざされています。

 

 碓氷関所跡の近くがJR信越本線の横川駅。横川と言えば・・・

 

 そうビックリマークおぎのやの“峠の釜めし”ですよね~ニコニコ。お昼割り箸はここにしようと来てみたら、巨大なドライブイン並みの建物の前は駐車スペースを探すのも大変なほどの混雑ぶり。中に入ると券売機で食券を求め、電光掲示板で呼び出されて取りに行くサービスエリア形式のシステムで、店内にはコーヒーショップや土産物売り場もあり、名前からイメージする鄙(ひな)びた駅弁屋の趣など微塵もなく・・・。って、今どきそんな郷愁を求めるほうがお門違いかなはてなマーク

 

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 外観にはブツブツ言いつつも(笑)、やはりこの味はおぎのやさんならではのものラブラブ。名物峠の釜めしに舞茸の天婦羅蕎麦をがっつりといただきました。

 

 駐車場の片隅にはこんなフォトスポットカメラもありました。

 

 そのまま帰宅するには少し時間があるので、ガイドブックを見て“新島襄(にいじまじょう)旧宅”(群馬県安中市)を訪ねることにしました。

 

 新島襄といえば“関西私学の雄”として名高い同志社大学(京都府京都市)の設立者であり、NHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公、山本八重(綾瀬はるか)の夫となる人物としても知られ、ドラマの中ではオダギリジョーさんが演じられました。

 

 その新島襄のご出身が群馬県の安中(あんなか)だったことを今回初めて知りました。

 

 ところで外観だけの見学なのか、家の中も見られるのかしばし迷い、

 

 でものぞくと中には資料館もあるようなので、

 

 入口を探して訪(おとな)うと係の方が出て来られ、見学は無料、ご自由に上がって見ていってくださいと声をかけてくださいます。

 

 玄関を入ると土間があり、

 

 その右手がお勝手。

 

 土間には囲炉裏があり、

 

 板の間もあわせるとかなり広く、使いやすそうです。

 

 入口の土間から上がると手前に7畳半の和室があり、囲炉裏が切られているのでここがご家族の居間のようです。

 

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 その奥は床の間つきの10畳の座敷で、パンフレットには“上段の間”と書かれているので、来客などを通す部屋かと思われます。

 

 二間つづきの和室は縁側をはさんで庭に面し、昔ながらの民家の建て方なのがとても懐かしいです。

 

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 床の間の掛軸(中央の大きいもの)は、新島襄が最晩年、自身が設立した同志社英学校の生徒に宛てて書いた手紙の一節を碑にしたものの拓本(たくほん・石碑などに刻まれた文字を紙に写し取ったもの)だそうです。「良心之全身ニ充満シタル丈夫(ますらお)の起リ来(きた)ラン事ヲ」(※良心が全身に満ちあふれた青年が現れることを望んで止まない、の意)と刻まれていて、これは同志社教育の原点ともいえる“良心教育”をよく表すものとして知られているそうです。

 

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 上段の間の天井は葦簀(よしず)天井でしょうかはてなマークそれとも細い竹はてなマーク

 

 ここまで見学したところで先ほどの係の男性が来られ、時間があれば説明しますとのことなのでガイドをお願いすると、まずこの家は二軒長屋で、実際に新島家が住んでいたのはお勝手から上段の間までの東半分で、保存公開のためそれを切り離し、実際にあった場所から50mほど移動させて、長屋の西半分は違和感のないよう新築して二軒長屋を復元し、展示室と事務室として使っているそうです。外観も内部も言われなければまったく気づかぬほどうまく復元されています。

 

 縁側にはさり気なく、NHK大河ドラマ『八重の桜』で使われた草鞋(わらじ)も飾られています。

 

 手入れの行き届いた庭を見ながら西側の展示室へ移動します。

 

 新島襄は1843(天保14)年、上州安中藩士新島民治の長男として江戸の安中藩上屋敷で生まれますが、女の子が4人続いた後の初めての男子誕生を喜んだ父君が思わず「しめたビックリマーク」と叫んだことから“七五三太(しめた)”と命名されたそうです。嘘のようなホントの話とガイドさんが笑いながら教えてくださいました爆  笑。七五三太少年は幼いころから優秀で、若干13歳にして藩主より蘭学の修行を命じられ、軍艦操練所で学んでいるときにアメリカ人宣教師が訳した漢訳の聖書に初めて出会い、神の存在を知ることになります。

 

 1864(元治元)年、21歳になった七五三太(しめた)は自由の国アメリカへの渡航を画策し函館に潜伏しますが、ときは江戸時代の鎖国政策真っ只中、順当に出国できるはずもなく、脱藩は死罪に値する罪でした。事実長州藩の吉田松陰(よしだしょういん)は1854(嘉永7)年、下田に来航した黒船にひそかに乗り込み密航を企てますが、失敗し投獄されてしまいます。そんな中七五三太は函館でロシア領事館付のニコライ司祭に出会い、その手助けのおかげで国禁を破り函館港よりベルリン号という船に乗って“脱国”することに成功します。その後上海で乗り換えたワイルド・ローヴァー号の船長から「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから、以後はその名を使うようになったそうです。確かに「しめた」は外国人には発音しづらそうですよねあせる

 

 無事アメリカのボストンに到着すると、ワイルド・ローヴァー号の船主夫妻の援助を受けてマサチューセッツ州の名門高校フィリップス・アカデミーに編入学、在学中にキリスト教の洗礼を受けます。高校卒業後は全米最高峰と謳われた同州のリベラルアーツ・カレッジのアーモスト大学(アマースト大学)に進学、さらにアンドーヴァー神学校で学問とキリスト教の研鑽を積み宣教師の資格を得ます。

 

 新島襄のアーモスト大学在学中に日本は明治維新を迎え、江戸の上屋敷にいた新島家も地元の安中に転居、当時江戸から引き揚げてきた人たちの住まいとして急遽建てられたこの二軒長屋に住むことになります。一方当初の脱国時は単なる密航者でしかなかった新島襄ですが、全米でもトップクラスの学校で学び身につけた先進的な知識と卓越した語学力は明治新政府の目にも留まることとなり、初代駐米公使森有礼(もりありのり)によって正式な留学生として認可されパスポートも発給されて、その後ちょうどアメリカ訪問中だった岩倉使節団と合流し、欧米各国の視察にも随行することになります。

 

 1874(明治7)年、日本にキリスト教を布教するという使命を帯びてついに帰国。その足で両親の待つこの安中の家を訪ね10年ぶりの再会を果たします。ただ実際に滞在したのはわずか3週間で、実家ということで便宜上“新島襄旧家”と呼んでいますが、彼がここに住んでいたわけではないんですよ、とのお話しでした。

 

 滞米中から新島襄は日本にキリスト教精神に基づく大学をつくりたいという強い志を持っていて、帰国後は布教と大学設立に向けて奔走し、翌1875(明治8)年、親交の深かった京都の公家華族の高松家別邸の一部を借り受けて校舎を確保し、“同志社英学校(現在の同志社大学)”を設立します。同志社の名は、“新島襄と同志たちが協力して一社を結ぶ”に由来するそうです。

 

 わずか3週間の安中滞在中にも新島襄は地元のひとたちに熱心にキリスト教の説教(講演)を行い、聖書研究会を開くなど布教につとめ、感銘を受けた人びとの中から新たな信者が誕生し、約30人もの人たちに洗礼を授けたそうです。縁あって八重さんと結婚し京都に居を構え、正式な同志社大学設立に向けて奔走するも、志半ばで病に倒れ、46歳という若さでこの世を去られたそうです。以上は展示室で各種資料や写真を見ながらガイドさんが説明してくださった話を要約したものです。

 

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 歴史の教科書で名前を知っているにすぎなかった新島襄の人生を、その一端ではありますがガイドさんのわかりやすい説明とパネル展示によって垣間見ることができたのは、ほんとうに有り難いことでした。激動の時代にあっても学問への情熱と未知なるものへの憧れを持ちつづけ、己の手で人生を切り開いてゆこうとするその気概と実行力には心底目を瞠るばかりです。

 

 そして不思議なことに新島襄の人生の節目節目には、必ず手を差し伸べてくれる頼もしい支援者がグッドタイミングで現れるんですよね。最初の“脱国”のとき然り、アメリカにたどり着いた後、まことにスムーズに勉学の道筋がついたこと然り。現代のようなグローバルな時代ならいざ知らず、あの鎖国の時代だったことを思うと奇跡としかいいようがないのですが、それは紛れもなく新島襄というひとの“人徳”だったのではないかと思います。己ひとりの力で為せることにはおのずと限りがあり、そこに協力者や仲間がいてこそ可能性は無限大となり、ともに成長してゆけるものです。

 そう思うと“同志社”という名は、新島襄の人生そのものを表わしているのかもしれないと改めて感じるのでした。

 

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