せっかく群馬まで来ているので、これはもうかねてより一度参拝したいと思っていた妙義(みょうぎ)神社へ行くしかないビックリマークということで、妙義山の麓を目指します。

 

 妙義神社(群馬県高崎市)なので妙義山にあると思い込んでいたのですが、実は妙義山は白雲山(はくうんさん)、金洞山(こんどうさん)、金鶏山(きんけいさん)という三つの山の総称だというのをこの後知りました。

 

 県道196号線沿いに建つ妙義神社の一の鳥居。

 

 鳥居脇の土産物屋“萩原芳泉堂”さんのむかし懐かしい飾り棚(ショーウィンドウではなく)をのぞき込んでいたら、ご主人が出て来て周辺の案内マップをくださり、神社参拝のルートとともに、神仏習合の時代、神社の中にはお寺もあったので、それも一緒に見て行ってくださいねと教えてくださいました。

 

 いただいた周辺マップによると妙義神社は白雲山の中腹にあり、金洞山、金鶏山と三峰をあわせて“妙義山”と呼ぶそうです。岩肌がむき出しになった断崖絶壁や鋸(のこぎり)の歯のようなギザギザな奇岩の林立する峯々は、下から見上げるには絶景ですが滑落事故なども多々あるそうで、山へ入るにはじゅうぶんな装備と注意が必要ですよと話してくださいました。地元のひとのこういうアドバイスはほんとうに有り難いですね。

 

 上り坂の参道からも正面にゴツゴツとした岩山が見えます。妙義山はその荒々しい山容から、耶馬渓(やばけい・大分県中津市)や寒霞渓(かんかけい・香川県小豆島町)とともに“日本三大奇勝”のひとつにも数えられているそうです。

 

 妙義神社の社号標の横にはみごとな枝垂桜桜。花はまだまばらですが、枝の先までいっぱいに蕾を抱いた咲く寸前の桜の木には、花も恥じらう乙女のような清楚さが漂って、この一瞬に出会えるととても幸せな気持ちになりますラブラブ

 

 石段の先に“総門”が見えてきました。一の鳥居をくぐったところから耳に心地よい涼やかな音が聞こえるなぁと思ったら、すぐ目に前に風鈴がたくさん吊るされています。軽やかな音色は境内の雰囲気にもよく合い、癒されます音譜

 

 堂々たる八脚門の総門。萩原芳泉堂のご主人のお話しによると、神仏習合の時代には妙義神社の中に別当として石塔寺(いしとうじ)という寺院があり、この総門はその石塔寺の仁王門だったそうです。神仏分離によって石塔寺は廃寺となりますが、神社の総門になった今も、門の左右には阿吽の金剛力士像が睨みをきかせています。

 

 総門の右手には思わず駆け寄りたくなるような高い石垣が・・・目。その先の屋根といい、まるでお城のような風情です。(神社なんですけどねあせる)

 

 総門の左手。

 

 総門の先の石段を上ると、

 

  さらに右手に続く石段もありますが、そちらではなく

 

 社殿を目指し左手の参道をすすみます。

 

 石段の手前には天然記念物の大杉(二代目)と、

 

 境内社がふたつ並んでいます。右は稲荷神社、左の合祀殿には“和歌三神之社”の名がついています。

 

 まだまだ続く石段をがんばって上ると、青銅の二の鳥居。 

 

 二の鳥居の右手が“波己曽社(はこそしゃ)”です。由緒書きによると妙義神社は古くは“波己曽神社”と称し、平安時代に編纂された歴史書『日本三大実録』にも記載されているそうです。この波己曽社は旧御本殿を1969(昭和44)年に移築し、境内社としたものだそうです。

 

 波己曽社の隣には弁天池が広がり、ここには5月頃杜若(かきつばた)が咲くようで、水辺なので弁天社かなはてなマークのところに「第119代光格(こうかく)天皇御遺愛の杜若」の立札がありました。

 

 波己曽社の御祭神は“波己曽大神(はこそのおおかみ)”ですが、帰宅後“波己曽”とは何だろうはてなマークと調べると、“岩社(いわこそ)”の意味で、荒々しい景観の妙義山を御神体とする山岳信仰から始まったことがわかります。

 

 いったん波己曽社とお別れし、手水舎(てみずしゃ)で御手水をとってから

 

 太鼓橋をわたり、ここからさらにもう一段上の御神域へと至る長い石段に挑みます。

 

 一直線に最上段の御神域へと続く165段の石段の脇には緩やかな女坂もあるのですが、ここはそれ、何としてもこの石段を上りたいんですっビックリマーク

 

 両側の大きな切り株のせいでしょうか。石段の方が身を縮めて場所を譲っているように見えます。自然の力ってすごいですねキラキラ

 

 息を切らして上り切った先には“随神門(ずいしんもん)”があります。

 

 門の内側にはユーモラスな虎の皮の敷物の上に座る豊石窓神(とよいわまどのかみ)と、同じ柄の腰巻をつけたあまり怖くない!?青鬼さんがいて、

 

 まるでお見合いのように向かい合って、反対側には豹(ひょう)の皮の敷物の上に座る櫛石窓神(くしいわまどのかみ)と、同じ豹柄の腰巻をつけた赤鬼さんがいます。赤鬼さんと青鬼さんのちょっと変わったポーズには何か意味があるのでしょうかはてなマーク

 

 随神門をくぐると少し左へずれた位置に、社殿へ上がる石段があります。

 

 そこで振り返ると、眼下には御神木と絶景が~音譜

 

 最後の石段の上には、瑞垣(みずがき)に囲まれた美しい“唐門(からもん)”が待っています。

 

 まるで東照宮を見るような、細部に至るまで素晴らしい装飾の施された豪華絢爛な唐門。

 

 その天井には力漲(みなぎ)る龍神さまの飛翔図が・・・。

 

 唐門の正面が妙義神社の拝殿です。黒と金を基調としたこれ以上ないというほどに華麗な彫刻に彩られた社殿は、一の鳥居からここまで懸命に、かなり急坂の石段を上ってきた参拝者を労(ねぎら)ってくれるかのようです。

 

 失礼して一歩近づき、内部を撮らせていただきました。社伝によると妙義神社(当初は波己曽神社)の創建は537(宣化天皇2)年と伝わり、創建時は波己曽大神(はこそのおおかみ)が御祭神でしたが今は境内社の波己曽社へお移りになり、現在の御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)、豊受大神(とようけのおおかみ)、菅原道真公、権大納言長親卿(ごんだいなごんながちかきょう)の四柱だそうです。

 

 眩しいほどに煌(きら)びやかな一対の龍が、繋虹梁(つなぎこうりょう)の上から拝殿へと進み出た参拝者を見下ろしています。

 

 内側からの唐門も美しく、そこから見える景色は一枚の額絵のようです。

 

 拝殿を背にして唐門の右手にあるこの建物は境内図によると“神楽(かぐら)拝見所”になっていますが、近くに神楽殿はないようなので、正面の広場に敷物を敷き、御本殿に向かって神楽を奉納したのかもしれません。

 

 少し離れて社殿全体を眺めると、その華麗さゆえか大きな神輿(みこし)のようにも見えてきますラブラブ

 

 拝殿につづく幣殿(へいでん・中)と本殿(左)。

 

 大好きな石垣ラブラブに萌え萌えしていると、夫が何やら屋根の下で合掌しています。

 

 行ってみるとそこは本殿の真裏に設けられた“天狗社(てんぐしゃ)”で、

 

 ガラスが反射してうまく撮れませんでしたが、左右に“心願成就の天狗さま”の面が祀られていました。

 

 社殿をぐるりと回り込み、この豪華な唐破風(からはふ)の下が“神饌所(しんせんじょ)”という神さまのお食事を支度するところです。

 

 拝殿の左右の脇障子を飾るのは、素木に彫られた“竹林の七賢人(ちくりんのしちけんじん)”。

 

 中国の晋(しん)の時代、俗世間を逃れ竹林に集い、酒を酌み交わしながら琴を弾き、清談をしたと伝わる七人の賢者(思想家)たちの様子を描いたものです。

 

 社殿をぐるりと周遊し、唐門からつづく瑞垣に設けられた北門を出ます。

 

 ここから見ると、石垣の上に載る隋神門から先が最上段の御神域として造られているのがよく見てとれます。隋神門手前の少し低い建物は“長床(ながとこ)”といい、帰宅後調べると、長床とは神社などに設けられた僧や修験道の行者たちの参籠(さんろう)の場だそうです。

 

 北門を出ると、正面の注連縄の張られた石柱のところが白雲山頂への登山道の入口で、手前には妙義山は岩場の多い危険な登山道なので転落注意の立看板と、登山者カードの提出ボックスがありました。この先に奥之院もあるようなのですが、準備を整えて来ていない老夫婦の脚では不安なので、今日のところは遥拝にとどめます。

 

 木立の中の緩やかな女坂を下り、

 

 太鼓橋が見えてくると、

 

 急峻な男坂(石段)との合流で、青銅の二の鳥居まで下って来たことになります。

 

 波己曽社(はこそしゃ)の脇からさらに奥へ行ってみます。

 

 波己曽社の真裏には“聖徳皇太子”の石碑がありました。おそらく聖徳太子のことかと思われますが、妙義神社との関係はよくわからず、Wikipediaによると聖徳太子の生年は574(敏達天皇3)年で妙義神社の創建はそれよりも古い537(宣化天皇2)年なので、もしかしたら参拝されたのかしらはてなマークと想像するほかはありませんでしたあせる

 

 そして黒々とした冠木門(かぶきもん)の左右には“旧宮様御殿”と“妙義神社社務所”の札が下がっています。

 

 “旧宮様御殿”の名にふさわしい壮麗な唐破風(からはふ)の下は式台玄関で、近寄ってみると

 

 その片隅に「本日宝物拝観はお休みです」と書かれています。この日は残念ながら休館でしたが、宮様御殿の中には宝物殿もあり、開いていれば大人200円で拝観できるようです。

 

 妙義神社のホームページによると“宮様御殿”は通称で、ここは1636(寛永13)年より東京上野の東叡山(とうえいざん)寛永寺(かんえいじ)の座主(ざす)、輪王寺宮(りんのうじのみや)の隠居所となっていたそうです。妙義神社の別当(べっとう)石塔寺(いしとうじ)は上野寛永寺の末寺だそうなので、その関係かもしれません。上の写真は妙義神社のホームページよりお借りしました。

 

 冠木門の前から総門を見下ろします。

 

 まるでお城のよう・・・と思った壮大な石垣の上に見えていたのは、宮様御殿の屋根でしたニコニコ合格

 

 お仁王さまに参拝の御礼を申し上げ、帰途につきます。

 

 参道を下りながら思い起こすと、妙義神社の境内は総門の先の二の鳥居の高さに旧寺域(現在の波己曽社と宮様御殿)があり、そこからさらに165段+αの石段を上り随神門、唐門を経て、ようやく最上段の御神域に到達するように造られていることに気づきます。地形を活かしつつその計算された境内配置にも感銘を受け、また一つ新たな学びを得られた今日の出会いがいっそう有り難く感じられます。

 

 妙義神社の御朱印です。

 

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