一つ前の記事でご紹介した新倉山(あらくらやま)浅間公園は近くに駐車場がなく、たまたま行った日が土曜日だったからか、誘導されて車を停めた無料駐車場は、歩いて10分ほどのところにある富士吉田市立下吉田第一小学校の校庭でした。

 

 公園も神社も予想外の人込みに少々疲れて車に戻り、お茶を飲んでひと息つきながらふと前方に目をやると、小学校の敷地のすぐ下にどう見ても神社の屋根としか思えない建物を発見目。おっ、こんなところにも神社がビックリマーク・・・と今までの疲れなど一気に吹き飛び、早速見つけたのがこの一の鳥居。社号標には“小室浅間神社(おむろせんげんじんじゃ)”とあるので、富士山麓に点在する浅間神社の一つのようです。

 

 石畳の参道を歩いていくと注連縄の張られた桜の木があり、看板には「ハートピンクハートの神樹」と書かれています。注連縄の下のこぶがハート形をしているからだそうで、縁結びの御利益があるのだとか。なるほど立体的なハートに見えますねニコニコ

 

 参道の途中にある境内社の“荒田八幡宮”。

 

 さらに行くと朱塗りの灯籠にゆるやかな太鼓橋、そして二の鳥居が見えてきます。

 

 橋の袂の“水天宮(すいてんぐう)”。下を流れるのは宮川です。

 

 美しい明神型の二の鳥居をくぐると、静かで穏やかな気の流れる御神域に迎えられ、やっと本来の神社に来た~という気がしてホッとします照れ

 

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 手水舎(てみずしゃ)で御手水(おちょうず)をとり、

 

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 拝殿にお詣りをします。神社の正式名称は“冨士山下宮(ふじさんしもみや)小室浅間神社(おむろせんげんじんじゃ)”といい、社伝によると793(延暦12)年、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東征の折、富士山を遥拝(ようはい)して戦勝祈願し、大願成就後の807(大同2)年その神恩に感謝して創建したと伝わるそうです。1200年以上の歴史を誇る古社ですね。

 

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 御祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)で、古来より富士吉田地域一円の産土神(うぶすながみ)として、また総鎮守の神さまとして地元では「下宮さん」と呼ばれ、親しまれているそうです。

 

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 拝殿の左手にあるこの岩、もしかして富士山が噴火したときの溶岩でしょうかはてなマーク

 

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 境内めぐりの最初は白馬の像が祀られた“神馬舎(しんめしゃ)”。社務所でいただいた栞によると「馬に乗る御祭神は生活を支える馬と関り深く、馬を神使としている」とあり、木花咲耶姫は馬に乗っていたかしらと帰宅後調べてみると、富士山周辺には炎の中で三人の子を出産した木花咲耶姫のその後の話が伝わるそうです。

 

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 それによると、木花咲耶姫とともに瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に嫁がされるも、見た目の醜さから実家へ追い返された姉の岩長姫(いわながひめ)は、我が身の醜さを嘆き伊豆の烏帽子山に引き籠ってしまいます。そのことを知った木花咲耶姫が姉に会いたいと探し回り、日本一高い富士山の頂上から見れば見つかるかもしれないと登頂を決意しますが難儀していると、どこからともなく白馬が現れて乗馬を促すので、姫はそれに乗って富士山へ駆け上がって行き、無事に姉を見つけ再会を果たしたそうです。小室浅間神社の御朱印帳には、確かに白馬に跨(またが)る木花咲耶姫命のお姿が刺繍されていました。

 

 脱線しました、すみませんあせる。境内社のつづきです。右から“室宮恵比壽(むろみやえびす)神社”、“日枝社”、“五社神社”と並びます。

 

 一番小さな“日枝社”の中には愛らしい「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の神像が鎮座しています。

 

 境内の左手には注連縄の張られた結界があり、

 

 その奥には溶岩樹形(ようがんじゅけい)を祠にした“胎内(たいない)弁天社”。

 

 道開きの神である“猿田彦(さるたひこ)大神”と、さまざまな神さまが祀られています。

 

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 拝殿の右手に行くと日本庭園のように美しい“神池(しんち)”があり、

 

 境内の地下より汲み上げた御神水は持ち帰ることもできるそうです。

 

 神池の横には“護良親王(もりながしんのう)古墳”と書かれ、注連縄の張られた一画があります。

 

 護良親王は第96代後醍醐(ごだいご)天皇の第三皇子(第一皇子という説もある)で、元弘(げんこう)の乱において鎌倉幕府打倒に功を挙げ、“建武(けんむ)の新政”では征夷大将軍に任ぜられますが父と不和になり失脚、鎌倉に幽閉されます。その後護良親王は騒乱の中首を討たれ無念の死を遂げますが、打ち捨てられていた首級は寵姫の雛鶴姫(ひなづるひめ)の手により鎌倉を逃れ、この桂の木の下に埋葬されたと伝わるそうです。

 

 悲運の皇子の話に胸が痛み、桂の木の中央に置かれた“大塔宮(だいとうのみや=護良親王の通称)社”と隣に寄り添う“雛鶴社”に静かに祈りを捧げます。

 

 小室浅間神社の本殿。

 

 本殿の裏手は一面ゴツゴツした岩場で、もしかして富士山の溶岩流かはてなマークと思い帰宅後調べると、やはりこれは937(承平7)年の富士山噴火の際に流れ出した“剣丸尾(けんまるび)溶岩”が冷え固まったもののようです。こんなにも離れたところにまで到達していたことに驚きます。

 

 本殿の裏手の建物は境内図によると“筒粥殿(つづがゆでん)”で、800年以上もつづく“筒粥神事”が行われるところのようです。筒粥神事とは、農作物の豊凶や富士山登山者数などを葭(よし)の筒の中に入る粥の量で占う伝統行事だそうです。この筒粥殿の背後が小学校の校庭で、たまたまわたしが見た景色はここだったようです。

 

 境内を一回りして来てふと見ると、神社の境内にもうひとつ“神馬舎(しんめしゃ)”があり、そこにはホンモノの神馬と広い馬場まであります。

 

 案内板によると小室浅間神社には“流鏑馬祭(やぶさめまつり)”という神事があり、そのときに使われる馬をここで飼育しているそうです。ふつう流鏑馬というと騎馬で矢を射るものですが、小室浅間神社の流鏑馬はそうではなくて、占人(うらびと)が馬の駆けた後の蹄(ひづめ)の跡を見て吉凶を占うというとても珍しい神事だそうです。

 

 この日新倉山(あらくらやま)浅間公園に行こうと思わなければ、そしてたまたま車を停めたのが下吉田第一小学校の校庭の端っこでなければ、知らないまま通り過ぎていたであろう冨士山下宮小室浅間神社。偶然の出会いはやはり木花咲耶姫(このはなさくやひめ)のお導きに違いないと思うと嬉しくありがたく、幸せな一日の締めくくりとなりました。

 

 櫻花の舞う冨士山下宮小室浅間神社の御朱印です。

 

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