吉野梅郷の再生をしっかりとこの目で見てとても安心し、イタリアン・レストラン『HIBACHIYA(ひばちや)』さんでお腹も満てたので、午後は梅郷にほど近い“青梅市吉川英治記念館”を訪ねます。

 

 吉川英治氏は言わずと知れた昭和を代表する国民文学作家で、なかでも『宮本武蔵』『三国志』『新・平家物語』『私本太平記』など歴史をテーマにした数々の作品は、今なお老若男女を問わず多くの人びとに愛されているので、ご存知の方やファンの方々も多いことと思います。

 

 その吉川英治氏の記念館が東京の外れのここ青梅市(おうめし)にあるのは、生誕の地というわけではなく、太平洋戦争の戦火が迫る1944(昭和44)年、それまで住んでおられた東京都赤坂区(現在の港区)からご家族とともに移住してきて、この地に居を構えたというご縁からだそうです。

 

 路地を入ると立派な“長屋門(ながやもん)”に迎えられます。門の袖部屋の片方は入館受付と小さなミュージアムショップになっていて、いただいたパンフレットによると入口に掲げられた「吉川英治記念館」の看板の文字は、日本画家の東山魁夷(ひがしやまかいい)氏の揮毫(きごう)によるものだそうです。

 

 長屋門を入ると正面に主屋が見えます。

 

 受付で聞いたとおりに、順路に従ってまず庭園を散策します。

 

 きれいに整備された石畳の遊歩道。

 

 主屋に面した日本庭園は丁寧に手入れされています。

 

 少し上って振り返ると、

 

 築山越しに主屋の大きな屋根が見えます。

 

 起伏のある庭園にはさまざまな樹々や山野草が植えられていて、この日も職人さんが植木の手入れをされていました。

 

 裏木戸かなはてなマーク

 

 庭園をぐるりと回ると、主屋の奥に建てられた真新しい展示館に出ます。

 

 日本庭園には欠かせない蹲踞(つくばい)も。

 

 ところどころに済州島(チェジュド)の守り神トルハルバンのような石像が照れ

 

 展示館前に聳える椎(しい)の木は樹齢500~600年という巨木で、英治氏はこの木の下で野点(のだて)を楽しまれることもあったそうです。

 

 展示館の入口。広いロビーからつづく展示室では英治氏の略年譜や貴重な直筆原稿、初版本、掲載新聞や雑誌、取材ノートなどの常設展示に加え、2024年新春展示として、数多くの吉川英治作品の装画、挿絵などを描いておられる『生頼範義(おおらいのりよし)展』が開催されていました。

 

 その絵に何やら見覚えがあるなぁと思ったら、我が家にもありましたビックリマーク。生頼範義氏装画の吉川英治著『三国志』が照れ。歴史好きの夫の蔵書です。まじまじと表紙の絵を見たことはなかったのですが、やはり原画は生き生きとしていて、細い線の一本一本にまで力が漲っているのを感じました。

 

 館内は写真撮影できませんが、充実した展示内容で見応えがあります。

 

 展示館を後にして主屋の方へ下りて行きます。

 

 二階建ての大きな主屋はもともと明治時代に建てられた養蚕農家で、購入後英治氏自ら設計を手掛けご自身と家族が住む住宅として改修し、“草思堂(そうしどう)”と名づけられたそうです。

 

 緩い坂道を下り切ったところにひっそりと建つこのハイカラな建物は、案内板には“洋館”と記されています。先代の持ち主が明治時代に建てた離れだったらしく、英治氏が買い取った後主屋からの渡り廊下を付けて、書斎として使っておられた時期もあったそうです。

 

 観音開きの上げ下げ窓や軒下の飾りなどが今見てもとてもおしゃれで、それでいて日本庭園や主屋にも違和感なく溶け込むデザインになっていますラブラブ

 

 さらにテラスの足元に敷き詰められたタイルがとても美しく、靴のまま乗るのはもったいないくらいですあせる。案内板によると、これは明治時代の洋風建築の流行に伴い日本で初めて製造された瀬戸焼の“本業(ほんぎょう)タイル”というものだそうです。年月が経っても色褪せることのない染付(そめつけ)の藍も花菱紋のモダンな模様もみごとなもので、吉川英治記念館を訪れた折には必ず見てほしい逸品ですラブラブ

 

 片隅に“伊奈(いな)製陶”(現在のLIXIL)で複製されたというタイルも展示されていますが、藍の色や白磁(はくじ)の滑らかさ、紋様の線の鮮やかさや力強さは、本物には遠く及ばない気がします。

 

 洋館の内部はガラス越しにしか見られないのですが、文机(ふづくえ)や座椅子、本棚などがそのまま遺されています。パンフレットによると英治氏はこの草思堂(そうしどう)で暮らした約10年間のうち前半はこの洋館を書斎として使っていましたが、後半は主屋の座敷で執筆されていたそうです。

 

 日本庭園に面した主屋の縁側はすべて美しい硝子戸ですラブラブ。 

 

 夏場など、硝子戸をすべて開け放すととても気持ちがよさそうです。

 

 もとは養蚕農家とのことなので、想像ですがこの縁側を囲む硝子戸は、英治氏の所有になってから設けられたものかもしれません。

 

 家の外観だけ見ても、かなりの豪農だったことが伺えます。

 

 主屋への入口の広い土間。

 

 ここから上がり、内部を見せていただきます。

 

 入ってすぐの取付(とりつき)には七段飾りの雛人形が飾られ、

 

image

 ちょうどひな人形展雛人形が開催中のようです。

 

 奥には二間つづきの和室。

 

 重厚な箪笥の上の陶雛(とうびな)もかわいい合格

 

 手前の十畳の和室には

 

 作りつけの神棚と仏壇があり、

 

 雪見というより座ったまま外が見える横長の額入り障子に、外から座れるお縁もついています。

 

 その奥の座敷は英治氏が書斎として使っておられた部屋で、当時の座卓もそのまま遺されています。この座敷は二面が庭園に面しているので、額入り障子も視界を遮らぬようとても大きく開口しています。

 

 右奥は欄間や床の間のついた正式な座敷。

 

 そこには歴史好きにはたまらない全集がずらりとキラキラ

 

 奥座敷には炉(ろ)が切られ、茶室としても使えます。

 

 硝子戸越しに見る庭園。

 

 この廊下の奥が洋館につながります。

 

 廊下の硝子戸の下は、格子を動かして開け閉めできる無双連子窓(むそうれんじまど)になっています。

 

 座敷を囲む廊下を曲がると

 

 左手に男女別のお手洗いがあり、

 

 そこの畳廊下を仕切る引き戸の意匠がまた素敵ラブラブなんです。

 

 次の間に出る手前に二階へ上がる階段があります。養蚕農家のときは二階はお蚕さんの部屋ですが、英治氏の住居になってからは写真のように改造して畳やカーペットを敷き、書庫や住まいの一部として使われていたようです。

 

 廊下の突き当たりには大きな雛飾りが二揃えもビックリマーク

 

 その右手が囲炉裏の切られた茶の間。

 

 落ち着いた色調の家具に囲まれて、居心地がよさそうです音譜

 

 その奥が板張りの台所と食堂、

 

 そして左手が広い玄関ですが現在は使われておらず、出入りはすべて土間の方からになります。

 

 食堂の右手は一番最初に入った土間に面した小部屋で、なんと畳を下りた一段下に応接セットを置いた土間のついた、和洋折衷のおもしろい作りになっています。

 

 土間から直に靴を履いたまま出入りができるので使い勝手がよく、来客や編集者たちとのちょっとした打ち合わせなどには便利ですね。

 

 ここにも陶雛がひと揃えラブラブ

 

 小部屋から土間、奥の間をのぞむ。 

 

 ぐるりと一周してまた土間へ戻ってきました。

 

 土間を出たところに井戸と土蔵があり、

 

 主屋の屋根の上には三つ並んだ煙出しが見えます。

 

 駐車場に面した門の両脇には立派な松の木。

 

 門を入ると玄関です。

 

 吉川英治氏は70年の生涯のうちに30回も引越しをされたそうで、その中で約10年の時を過ごしたこの草思堂(そうしどう)は最も長い間住まわれた場所で、いかにこの地がお気に召していたかがわかります。1945(昭和20)年8月15日、日本が終戦の日を迎えると、英治氏はそれから二年間筆を断たれますが、それは逆に地元青梅の人たちと深い交流を持つ時間となり、その後再び筆を執って生まれた大作が『新・平家物語』だったそうです。昭和の大作家の再生を助けたともいえる草思堂が今もこうして大切に保存公開されているのは大変ありがたく、感謝の思いを胸に記念館を後にしました。

 

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