ランタンフェスティバルは、長崎市内各所に設けられた会場の華やかな飾りつけを眺めながら散策したり、特設ステージで毎日何かしら行われている龍(じゃ)踊りや中国変面ショーなどのステージを楽しんだり、皇帝パレードや媽祖(まそ)行列を見物するだけでもじゅうぶんに楽しいのですが、パンフレットを見ると体験型イベントが3つ用意されていたので、そのなかのひとつに行ってみることにしました。

 

 それが“唐人屋敷会場”で行われている“ロウソク祈願四堂巡り”です。江戸時代の鎖国政策の折、対外貿易は長崎におけるオランダと中国の2国のみに限られていましたが、密貿易とキリスト教の浸透を怖れた幕府は、来航したオランダ人を出島(でじま)に閉じ込め、それまで長崎市内に散住していた中国人(唐人)も一ヶ所に集めて、体よく隔離して住まわせた居住地域が“唐人屋敷”です。幕府が築いた唐人屋敷は広さが約9,400坪あり、高い塀や堀に囲まれた敷地内には2千人の収容能力を持つ二階建ての木造長屋が20軒あまりも立ち並び、出入口には番所があって、人や物の出入りを厳しくチェックしていたといわれています。

 

 当時唐人屋敷があったのは新地中華街にもほど近い十善寺郷(じゅうぜんじごう)と呼ばれるところで、長崎奉行所の管轄下に置かれていたそうですが、鎖国が解かれ、1859(安政6)年に長崎が開港すると、唐人屋敷に居住させられていた中国人のほとんどがここを出てしまったので次第に荒廃してゆき、1868(明治元)年に正式に解体されて、設置以来179年の唐人屋敷の歴史に幕を閉じたのだそうです。

 

 その“唐人屋敷跡”の扁額の架かる「唐人屋敷象徴門」は、歩いて数分の距離ながら、派手な新地中華街とはまたひとあじ違う落ち着いた雰囲気を湛えています。

 

 さて、現在の唐人屋敷跡には当時の唐船船主たちが建てた4つのお堂が残されていて、その四堂を巡りながら蝋燭を備えて祈願すると願いが叶うという言い伝えがあり、ランタンフェスティバルの会期中は毎日、体験型のイベントとして催されているそうです。

 

 受付で4本1組の大きな赤い蝋燭を買い求め、 

 

 さっそく最初の“土神堂(どじんどう)”へ行きます。土神堂は1691(元禄4)年、唐人屋敷で暮らす唐船の船主たちの願いにより屋敷内で一番最初に建てられたお堂で、大火や原爆の被害、また老朽化のため幾度かの改修や再建を経て、現在の建物は1977(昭和52)年に復元されたものだそうです。

 

 堂内には蝋燭を上げる大きな献灯台が設けられ、

 

 祈りを込めて捧げてから

 

 祀られている土神さまに手を合わせます。

 

 土神さまは別名を“福徳正神”といい、土地や家を守り、豊作をもたらす神として中国では古来より広く民間に信仰されてきた神さまだそうです。

 

 土神堂を出て次の“天后堂(てんこうどう)”へ向かいます。坂の街長崎らしい石段の風景。

 

 土神堂の反り返った屋根も美しいラブラブ

 

 狭い路地道を歩いて行くと、

 

 突き当りがふたつめの“天后堂(てんこうどう)”です。

 

 煉瓦造りの美しい門。

 

 天后堂は海の女神といわれる“天后聖母(てんこうせいぼ)”、別名“媽祖(まそ)さま”を祀るお堂で、1736(元文元)年、唐人屋敷に住む中国南京(なんきん)地方の船主たちにより航海の安全を祈願して建てられて、現在の建物は1906(明治39)年に復元されたものだそうです。

 

 堂内には祭壇が三つあり、中央に媽祖さま、向かって右に関帝(三国志の武将関羽を神格化したもの)、左には観世音菩薩が祀られています。

 

 当時中国から季節風に乗り海を渡って日本へ来るのは容易なことではなかったと思われ、航海の安全を守る媽祖さまは、何より大切にされた神さまだったことと思います。

 

 江戸時代、無事に長崎へ入港した唐船の船主や乗組員たちは、船内に祀られていた媽祖さまを港から唐人屋敷内の天后堂へ丁重にお運びし安置したそうで、ランタンフェスティバルの人気イベント“媽祖行列”は、その様子を再現したパレードなのだそうです。

 

 つづいて三つ目の“観音堂”へ向かいます。

 

 観音堂の入口には石造りのアーチ門が立っています。

 

 このアーチ型の石門は復元されたものではなく、唐人屋敷時代のものがそのまま遺されているそうです。

 

 住宅地に囲まれた“観音堂”は1737(元文2)年、中国福建省(ふっけんしょう)出身の船主たちによって建てられ、同じく改修や再建を経て、現在の建物は1917(大正6)年に改築されたものだそうです。

 

 堂内には向かって右に小さな子どもを抱いた観世音菩薩像、左に関帝が祀られています。

 

 煉瓦造りの美しいお堂です。

 

 順路に従い最後の“福建会館天后堂”へ向かう途中、何やら視線を感じて見上げると、5匹の猫ちゃんたちが塀の上で日向ぼっこをしていました。なんとも和やかな風景です照れ

 

 石垣と路地道・・・やっぱりここでもナムギルさんを思い出しますラブラブ

 

 そんなこんなしているうちに、最後の“福建会館天后堂”に着きました。

 

 “福建会館”は、1868(慶応4)年に唐人屋敷が解体されてのち、福建省南部出身の貿易商たちの集まる商工会議所として建てられたものだそうで、門を入ると確かに今まで回ってきた3つのお堂の敷地よりも広々としています。

 

 建物は1888(明治21)年の火災で焼失、9年後に再建されますが、会館の本館は原爆により倒壊し、今残されているのは2018(平成30)年に復元されたこの天后堂と門だけだそうです。

 

 福建会館の献灯台は天后堂の内部ではなく、別のテントに設置されています。

 

 階段を上ると、

 

 手前から奥へと三枚並ぶ扁額が目を惹きます目。そして内部のつくりは四堂の中では一番日本ふうに感じられます。

 

 パンフレットによると福建会館天后堂に祀られているのは大小二体の媽祖(まそ)さまなのですが、撮った写真を見ると、中央の媽祖さまのお膝元におられるはずのもう一つの小さな媽祖さまがご不在のようです。その小さい方の媽祖さまは、ランタンフェスティバルの媽祖行列にご参加なさり、今は寺町の興福寺(こうふくじ)にいらっしゃるみたいですラブラブ

 

 石段脇の大きな蘇鉄(そてつ)は雌株なのか、たくさんの実を抱いていました。蘇鉄の実には確か猛毒があるのですよねはてなマーク

 

 四堂は比較的近くに集まっているので、お参りしながらゆっくり巡っても30分くらいです。

 

 唐人屋敷の歴史を知ると、居住地域を定められ、外部との行き来も制限されて、さぞ不自由な生活を強いられていたのかとも思いますが、元来強靭な華僑のひとたちのこと、人が集まれば市も立ち酒場もできて、神さまを祀るお堂があれば祭りのひとつやふたつあってもおかしくないし、案外敷地の中ではそれなりに自由闊達に過ごしていたのかもしれません。

 

クローバー チューリップピンク クローバー チューリップオレンジ クローバー チューリップ紫 クローバー チューリップ赤 クローバー チューリップ黄 クローバー 

 

 地元長崎とはいえ、まだまだ知らぬことがたくさんあるのに気がついて、次はランタンフェスティバルではないふつうのときに、改めて唐人屋敷跡を歩きながら往時の面影を偲んでみたいと思います。時間がなくて立ち寄れませんでしたが、土神堂の隣には“十善寺地区まちづくり情報センター”もあり、歴史の痕跡を守り伝えながら次代へつなげてゆく試みが実践されているのはとても頼もしいなぁと思いました。

 

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