古都奈良といえば東大寺に法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町)はセットみたいなものなのに、「いざ、法隆寺へビックリマーク」と意気込むわたしの横で、夫はしきりと首を傾げています。

 

 方向音痴のわたしは何となく法隆寺も東大寺のすぐ近くかと思っていたのですがそうではなくて、東大寺から法隆寺へ行くには、うまくいってもバスと電車を乗り継いで1時間はかかると言うのです。エッそうなのびっくり!? その時点ですでに午後2時半、1時間で到着したとしても日没の早い冬場の拝観時間は午後4時半まで。

 

 それでも行くのはてなマーク・・・って当然でしょビックリマーク。ここまで来て行かなかったら一生後悔するに決まってるもん。そう言うと思った爆  笑と苦笑する夫を尻目に、行くと決めたらぐずぐずしている暇はありません。東大寺前からバスでJR奈良駅まで行き、大和路線に乗り換えて無事法隆寺駅に降り立ちました。駅の南口からは法隆寺行きのバスが約20分間隔で出ています。

 

 10分もかからずに、国道25線沿いに建つ「聖徳宗(しょうとくしゅう)総本山法隆寺」と刻まれた寺号標に到着。ここまでは順調です。

 

 そこから、思わず姿勢を正したくなるほどまっすぐに、松並木に囲まれた参道が伸びています。この松並木には、第33代推古(すいこ)天皇とともに斑鳩寺(いかるがのてら=のちの法隆寺)を創建なされた聖徳太子3歳の頃のエピソードが残っています。春3月、桃の花の盛りに父用明(ようめい)天皇から「桃の花と松の枝のどちらが好きかはてなマーク」と尋ねられた太子は、即座に「松」と答えたそうです。

 

 その理由は「桃の花は美しくても儚(はかな)いが、松は万年枯れることがないから」というもの。3歳にしてこの答弁、父君もさぞや驚かれたことでしょう。2歳のときには東を向いて合掌し「南無仏」と唱えたとか、長じては一度に10人の話を聞き分け、それぞれに的確なアドバイスを与えたという逸話とともに、聖徳太子が幼少期からいかに優れた人物だったかを物語っています。

 

 その松並木が終わるところに、法隆寺伽藍の総門にあたる“南大門(なんだいもん)”があります。両脇に伸びる築地塀(ついじべい)とのバランスもよく、

 

 何より南大門をフレームにした西院伽藍(さいいんがらん)の“中門(ちゅうもん)”と“五重塔”がまるで絵はがきのように美しいですラブラブ

 

 南大門から中門へまっすぐに続く参道の両脇には塔頭(たっちゅう)寺院が並び、

 

 いよいよ正面に中門と五重塔が見えてきました。

 

 “手水舎(てみずしゃ)”のあるところは表参道と交差するもう一つの参道で、

 

 その道は“東大門”を経て“夢殿(ゆめどの)”のある“東院伽藍(とういんがらん)”へ至ります。

 

 法隆寺といえばこの景色というほどに美しい松と中門と五重塔合格。閉門が近いからか周囲に観光客は見当たらず、静まり返っています。

 

 現在の法隆寺の境内は、五重塔と金堂を中心とする“西院伽藍(さいいんがらん)”と、夢殿を中心とする“東院(とういん)伽藍”に分けられますが、この中門は西院伽藍の正門にあたります。法隆寺の創建は607(推古15)年、『日本書紀』によると670(天智9)年の火災により伽藍を焼失したそうですが、8世紀初頭には現在の西院伽藍が再興され、その後は奇跡的に大火や天災を免れて今に至ることから、世界最古の木造建築群として飛鳥時代(593~710)の面影を今に伝えています。

 

 法隆寺の金剛力士像は南大門ではなく、中門におられます。パンフレットによるとこの金剛力士像の造立は711(和銅4)年。眼力鋭い勇壮なお仁王さまを見上げていると、1,300年以上前に造られた像が今もこうしてそのままの姿で遺されていることが奇跡のようで、さらにそれを金網や硝子などの仕切りを隔てず直に拝めることがほんとうに有り難いです。

 

 しかもこの阿吽(あうん)のお仁王さまは木彫ではなく塑像(そぞう)だそうです。塑像とは心棒(しんぼう)に藁や縄などを巻きつけ、その上に粘土などを塗って肉付けしながら形成する技法で、日本では塑像が盛んに作られたのは奈良時代まで、平安時代以降は一本の木を彫り出す“一木造り”が主流になっていくそうです。そのため法隆寺の金剛力士像二体は、寺門に置かれた仁王像の中では国内最古のものとされているそうです。

 

 中門は通れないので、中門から伸びる西廻廊に設けられた拝観入口を入ります。

 

 チケット売場の職員さんが、この時間は人混みを気にせずゆっくり拝観できるので、どうぞがんばって夢殿まで行ってくださいね、と励ましてくださいましたおねがい。はいっビックリマークそうしますビックリマーク

 

 法隆寺のシンボルともいえる“五重塔”の創建は、中門の金剛力士像よりさらに古い607(推古15)年だそうです。青空に映えるその美しい姿は、聖徳太子の時代から1,400年以上の時を経ても今なお見る者のこころを惹きつけて止みません。

 

 奥の“大講堂”と手前の中門をつないでぐるりと廻廊が巡らされ、その伽藍の中央に五重塔(左)と金堂(右)が並立しています。

 

 現存する木造建築の五重塔としては世界最古という法隆寺の五重塔は、Wikipediaによると高さが約32.5mもあり、初重(一番下)から五重(一番上)までの屋根の逓減率(ていげんりつ・大きさの減少する率)が高いのが特徴で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分になっているそうです。なるほど、朝に見た興福寺(奈良県奈良市)の五重塔とどことなく雰囲気が違うと感じるのは、上に行くにつれて小さくなっていく屋根のバランスのせいなのですね。

 

 法隆寺の本堂にあたる“金堂(こんどう)”は内部に入り拝観ができます。内陣の須弥壇(しゅみだん)中央には御本尊の大きな“釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)”、その左右に薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)と阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)、間に吉祥天像(きっしょうてんぞう)と毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)、さらに四隅を四天王像(増長天・広目天・持国天・多聞天)が守護し、仏さまの頭上には華麗な天蓋(てんがい)が吊るされています。特に端正でかすかに笑みを浮かべたような表情の釈迦三尊と、白鳳(はくほう)時代(7世紀後半~8世紀初頭)に造られたという国内最古の四天王像が印象に残っています。

 

 金堂、五重塔の奥に位置する“大講堂(だいこうどう)”は、西院伽藍ができたときにはなかったようで創建年代は不明ですが、平安時代の925(延長3)年、落雷で焼失するも990(正暦元)年に御本尊とともに再建されたそうです。法隆寺の中では珍しい横長の大きな建物です。

 

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 大講堂は僧侶の学問研鑽(けんさん)の場であり、法要なども行われる道場の役割を担うそうです。堂内の須弥壇(しゅみだん)上には薬師如来(やくしにょらい)坐像を中心に左に日光菩薩、右に月光菩薩(がっこうぼさつ)がおられ、この“薬師三尊像”が御本尊で、四隅には仏法を守護する四天王像も安置されています。

 

 大講堂向かって左手には、中門までつづく西廻廊の途中に“経蔵(きょうぞう=経典を収める倉庫)”があり、

 

 右手の東廻廊には経蔵と対をなすような同じ形状の“鐘楼(しょうろう)”があります。

 

 パンフレットによると、鐘楼内の梵鐘(ぼんしょう)は白鳳時代の鋳造で、今なお当時の音色を響かせているそうです。そういえば正岡子規(まさおかしき)の「柿くへば(食えば)鐘が鳴るなり法隆寺」という有名な句がありますが、きっと子規が見た景色も、晩秋のこんな夕暮れどきだったのかもしれません。

 

 境内図を見るとよくわかるのですが、大講堂から伸びる廻廊は少し変わった凸型(とつがた)になっています。

 

 名残惜しいのですが西院伽藍を後にして、

 

 “大宝蔵院(だいほうぞういん)”へ急がねばなりません。

 

 西院伽藍を出たところには“鏡池(かがみいけ)”。

 

 西院伽藍の東廻廊と並行して建つ縦長の“東室(ひがしむろ)はもとは僧房(そうぼう=僧侶の住居)だったところで、今は聖徳太子の尊像を祀るために南端を改造し“聖霊院(しょうりょういん)”と呼ばれています。法隆寺の御朱印はここでお受けすることができます。

 

 夕暮れどきの鏡池はまさに鏡面のようです。

 

 聖霊院のある東室(ひがしむろ)のすぐ横に並行して建つ“妻室(つまむろ)”は同じく僧房として使われていた建物で、東室で暮らす高僧の世話をする僧たちが住み、当時は“東室小子房(しょうしぼう)”と呼ばれていたそうです。

 

 大宝蔵院へ向かう途中の“馬屋(うまや)”の中には、聖徳太子の愛馬といわれる“黒駒(くろこま)”の像がありました。厩(うまや)の前で生まれたことから「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」とも呼ばれる聖徳太子に因んだものでしょうか。

 

 妻室(つまむろ)(左)と“綱封蔵(こうふうぞう)”(右)という寺宝を収蔵する蔵の間の小径を行くと、

 

 食堂(じきどう)や細殿(ほそどの)などの建物の奥に、

 

 “大宝蔵院(だいほうぞういん)”という法隆寺に伝わる貴重な宝物(ほうもつ)の数々を保存公開している宝物殿があります。大宝蔵院は、世界最古の木造建築群として名高い法隆寺の中では最も新しい建物で、1998(平成10)年に落成しています。

 

 中門(ちゅうもん)向かって左の“西宝殿”、右の“東宝殿”、中門奥の“百済観音堂(くだらかんのんどう)”がコの字型に配置された大宝蔵院の内部には、日本史の教科書には必ず出てくる“玉虫厨子(たまむしのずし)”や、悪夢を吉夢に変えてくださるという慈悲深い“夢違観音(ゆめちがいかんのん)”、藤原不比等(ふひと)の夫人で光明(こうみょう)皇后の母君の橘三千代(たちばなのみちよ)の念持仏とされる阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)などに加え、飛鳥時代の仏教美術を代表する仏像として有名な“百済観音像(くだらかんのんぞう)”他、1,400年以上の歴史を誇る法隆寺ならではの貴重な品々が展示されています。

 

 大宝蔵院を出て、

 

 法隆寺の塔頭(たっちゅう)寺院の立ち並ぶ参道を歩き、

 

 東院伽藍(とういんがらん)を目指します。夕陽が長い影をつくり、空には月が・・・。

 

 西院伽藍と東院伽藍を分ける“東大門(とうだいもん)”。

 

 東大門から石畳の参道がまだまだ続きます。

 

 そして東院伽藍への入口の“四脚門(しきゃくもん)”。

 

 “手水舎(てみずしゃ)”の水盤には鳳凰(ほうおう)が羽ばたいています。

 

 “夢殿(ゆめどの)”を囲む廻廊の連子窓(れんじまど)の外には、神輿(みこし)が袴をつけたような美しい姿の“東院鐘楼(しょうろう)”があります。

 

 いよいよ夢殿の屋根の上に載る宝珠(ほうじゅ)が見えてきました。パンフレットによると東院一帯はかつて聖徳太子一族の住居の“斑鳩宮(いかるがのみや)”があったところで、太子の没後100年以上も経ってから、荒廃していた斑鳩宮跡の様子に胸を痛めた行信僧都(ぎょうしんそうず)という高僧が、太子の遺徳を偲んで739(天平11)年に造営した伽藍(がらん)を“上宮王院(じょうぐうおういん)”といい、その中心となる建物が夢殿だそうです。

 

 美しい八角円堂の夢殿の中央には御本尊である“救世観音像(ぐぜかんのんぞう)”が厨子に入って安置されているそうですが、秘仏のため見ることはできません。扉の開いたところからは、御本尊の周囲を囲むように安置された聖観音菩薩像(しょうかんのんぼさつぞう)や行信僧都坐像(ぎょうしんそうずざぞう)、聖徳太子孝養像(こうようぞう)などを金網越しに見られますが、内部が暗いので詳細はわかりませんでした。

 

 夢殿の北側に建つ“絵殿(えでん)・舎利殿(しゃりでん)”は、中央通路をはさんで東三間が聖徳太子2歳の春、東を向いて合掌したときその掌中から出現したという舎利(しゃり=仏さまの遺骨)を安置する舎利殿、西三間が太子一代の事績を描いた障子絵を収めた絵殿だそうです。

 

 絵殿・舎利殿のさらに北側に並行して建つ“伝法堂(でんぽうどう)”は、聖武天皇の夫人の橘古那可智(たちばなのこなかち)の住宅を仏堂にしたもので、堂内には数多くの仏像が安置されているそうです。

 

 伝法堂のさらに奥には“太子堂”という建物があるようですが、門は固く閉ざされています。

 

 さて、境内図を見ながら駆け足走る人で西院伽藍(さいいんがらん)へ戻り、北西部に位置する西円堂(さいえんどう)を目指します。

 

 こちらが西院伽藍東廻廊の外にあった僧房“東室(ひがしむろ)”と対を成す西廻廊外の“西室(にしむろ)”で、その南端には聖徳太子著の『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』に因む“三経院(さんぎょういん)”があり、

 

 その脇を通り抜けてさらに奥へ行くと、

 

 小高い丘の上に夢殿とはまた違う八角円堂が建っています。

 

 こちらが別名「峯の薬師」とも呼ばれる“西円堂(さいえんどう)”です。法隆寺のホームページによると、718(養老2)年、光明(こうみょう)皇后の母君である橘三千代(たちばなのみちよ)の発願(ほつがん)により創建されたと伝わるそうです。

 

 拝観時間をとっくに過ぎているので扉は閉ざされ垣間見ることもできませんが、内部には中央の御本尊薬師如来像(やくしにょらいぞう)を囲むように十二神将(じゅうにしんしょう)や千手観音(せんじゅかんのん)、不動明王(ふどうみょうおう)などが安置されているそうです。

 

 西院伽藍の西廻廊の端にある拝観受付の扉も閉まっています。

 

 境内のすべてを回ることは叶いませんでしたが、行く先々にいらっしゃる係員の方はどなたも焦るわたしたちを決して急かすことなく、何とか拝観できるよう効率的な回り方を教え、励ましてくださったのがほんとうにありがたかったですおねがい。おかげさまでほぼ人気(ひとけ)のない法隆寺を堪能するという貴重な経験をさせていただきました。

 

 夕闇迫る松並木の参道。このまっすぐな参道を挟んで両脇にバスも通れる車道があり、道路沿いには土産物屋が立ち並んでいたようですが、来るときは気持ちが急(せ)いていてまったく気づきませんでしたあせる

 

 法隆寺の御朱印は、何種類かある中から「以和為貴」を選びました。“和を以って貴しと為す(わをもってたっとしとなす)”は、聖徳太子が制定した日本で最初の憲法である『十七条の憲法』第一条の中の一文で、その後に「忤(さから)うことなきを宗(むね)となす」と続きます。人間関係の難しさは今もむかしも変わらないものであることを実感すると同時に、周囲との協調、協和を図るためには、単に妥協するだけではなく、譲り合いと傾聴(けいちょう)のこころがもっとも大切なのではないかと思う次第です。(⑧につづく)

 

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